流鏑馬

流鏑馬(やぶさめ)について

日本で流鏑馬を行う流派は小笠原流と武田流が主流です

鎌倉時代には、武田信光、小笠原長清、海野幸氏、望月重が「弓馬四天王」と呼ばれていました。

そのうちの武田信光、小笠原長清が日本の2大流派「武田流」と「小笠原流」の宗家です。

2名ともに甲斐源氏の家柄で、その祖となるのが新羅三郎・源義光です。

余談ですが源義光の兄には、後に鎌倉幕府を開く源頼朝の系統である八幡太郎・源義家がいます。

この源義光の孫にあたる武田信義と その曾孫にあたる小笠原長清が、日本の2大流派の開祖です。

源平合戦(治承・寿永の乱)の時に武田信義は、甲斐源氏の棟梁として源頼朝とは別の勢力として活動していましたが、後に頼朝の配下となり鎌倉御家人の一人となります。その息子が武田信光です。

 小笠原長清は、父・加賀美遠光と共に頼朝の傘下で活躍し鎌倉御家人の主要人物となります。

平家を倒し鎌倉に武家政権の礎を築きつつあった源頼朝は、京の貴族文化に負けず劣らず武家の精神と礼法を根付かせる一環として1187年に鎌倉・鶴岡八幡宮で流鏑馬神事を取り仕切ります。
 これが、現在に伝承させる流鏑馬神事の始まりと言われています。

そして小笠原流と武田流の因縁は、戦国時代に発生します。

信濃守護であった小笠原長時は、小笠原流宗家も継承した弓矢の名手でした。
当時甲斐守護の武田信玄が、隣国を虎視眈々と狙う戦国大名として勢力を拡大させていました。

小笠原長時と武田信玄は遂に激突して武田信玄が勝利し、信濃国を小笠原長時から奪い取ってしまいます。

その後は、歴史が示す通り、甲信地方を制圧した武田信玄が、越後の上杉謙信などと関東の覇権を争います。

小笠原長時は、その後織田信長に仕えた後に徳川家康に仕えてその命脈を保ち続けます。

ただし小笠原流の免許は傍流の赤沢家に継承され、現在の小笠原流弓馬術礼法・三十一世宗家:小笠原清忠まで続いています。

武田流宗家は、甲斐武田ではなく実は安芸武田家に継承されていました。

その後、若狭武田氏を経て九州小倉藩:細川家の指南役となり、現在も熊本で「武田流(細川流)騎射流鏑馬」として継続しています。

 武田流を名乗る団体は、合計3つ存在しますが「武田流(細川流)騎射流鏑馬」「大日本弓馬会」「「日本古式弓馬術会(武田流流鏑馬)」つ残りの2派は分派した流派と思われますが、オバマ大統領の前で流鏑馬を披露した「大日本弓馬会」がメディアで一番取り上げられている武田流となります。

4月21日に鎌倉で流鏑馬を奉納するもこの流派です。

小笠原流 と武田流 の違いと見どころ

小笠原流は、鎌倉時代から継承する正統派として美しい騎射が見どころです。
馬上での矢番えと左右均等な会の姿勢が美しいです。
歩射で「正面射ち」を小笠原流とも呼びますが、馬上でもそれに近い形を実践します。
(馬上ではなかなか難儀です)
矢を放つ前に「インヨー!インヨー!」と叫びますが、これは「陰、陽」の意味で邪気を払うためとのこと。

正統派なだけに実力がないと流鏑馬に出場できません。
女性射手が少ないですが、出場している女性射手は、相当の腕前ということになります。

武田流(大日本弓馬会)は、実践型の騎射といった感じです。
歩射で云うところの「斜面射ち」の日置流を馬上でやる感じです。

流鏑馬の前に代表の射手が馬上で天と地に向かってエアで矢を放つ「天長地久の義」という型を披露します。
これも神事の一環で武田流流鏑馬の楽しみの一つでもあります。

武田流といえば、射手の皆さんが左肩の射籠手が黒いというのが特徴です。

美しい女性の射手さんも多いのでビジュアル受けもしますw

最後に、馬上で矢を放つこと=流鏑馬(やぶさめ)ではありません!!

それは、ただの「騎射(きしゃ)」です。

流鏑馬とは神事ですので、神社の本殿で射手が祈りを捧げて、馬場を清める儀式を経て、3つの的を放つ一連のことを呼びます。

 そして、最初の3人の騎射だけが「流鏑馬」としての矢を放つことになります。

その後に走る射手が 演武としての「騎射」になります。

流鏑馬を見に行かれたら 最初の3人を見逃さないようにしてください。

以上 流鏑馬の豆知識でした。

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