日本史関東戦国黎明期

関東戦国黎明期⑤~ 関東の下剋上

関東戦国黎明期を紹介するシリーズ、北条早雲が台頭する時代からそろそろ知名度あるので、今回で最終回とします。
前回はこちら

1.北条早雲の伊豆制覇

関東で太田道灌が暗殺され、山内上杉と扇谷上杉が争うことになった「長享年中の乱」が勃発した長享元年(1487年)に、北条早雲は駿河国・今川家のクーデターに関与します。

先年に北条早雲の調停によって今川家家督問題で、まだ幼かった龍王丸が成人するまで、家督を代行することになった小鹿範満がいつまで経っても家督を譲る気配がなかったため、北条早雲は龍王丸支持の勢力と組んで小鹿範満を討ち滅ぼします。龍王丸今川氏親(今川義元の父)と名乗り今川家当主となりました。

「長享年中の乱」が3つの戦いが終わった後、延徳3年(1491年)、堀越公方:足利政知が病死します。

堀越公方には長男:茶々丸と異母兄弟の次男:清晃(法名)と三男:潤童子という3人の息子がいたのですが、
政知は、素行が悪かった長男の茶々丸ではなく、三男の潤童子を後継者と決めていました。
※次男:清晃は、次期室町将軍に擁立するようにと管領:細川政元に仕組まれていたようです。

長男:茶々丸は、父・政知が死去したことで、三男:潤童子を殺害し強引に2代目堀越公方になりました。

明応2年(1493年)北条早雲は、堀越公方:茶々丸が人望がないことを利用して奇襲をかけてたちまち伊豆一国を征服してしまいます。

善政によって民衆の人望を掌握した北条早雲の協力な足掛かりができることになりました。
※しかし、この話は、細川政元によって10代将軍:足利義材が追放された「明応の政変」と関連しており、細川政元により11代将軍に擁立された清晃(足利義澄)が、弟:潤童子を殺害した茶々丸を追討を北条早雲に命じたというのが真相のようです。

いずれにしても、両上杉家の権力争い堀越公方の家督争いを利用して
北条早雲が伊豆を拠点として勢力を固めていくことになりました。

2.北条早雲の西相模制覇

北条早雲の次なる野望は扇谷上杉家の勢力を奪い取ることであった。
相模を征服するには、小田原城は押さえねばならない要所である。
当時の小田原城主は「扇谷上杉三将」と呼ばれた大森氏頼という人物で太田道灌亡き後の扇谷上杉家の頼みの綱であった。

明応4年(1495年)、その大森氏頼が死亡したことで機会が到来する。

小田原城主の後を継いだ「大森藤頼」に手紙や珍品などの贈り物をして親交を深めて油断を誘っていくのである。
大森藤頼が気を許した頃を見計らって、早雲は
「伊豆で鹿狩をしていたら、鹿が箱根に逃げてしまいました。勢子をそちらに入れて鹿を伊豆に追い返してもよいでしょうか?」
と願い出るのです。
大森藤頼はその相談内容を許可してしまいます。
北条早雲は、勢子姿の精鋭数100騎を箱根山・石垣山に潜ませ、夜には牛の角に松明などをつけ、民家に火を放つなどをして数万の大軍が強襲したように見せかけて、小田原城を落城させてしまいました。

というのが、有名な北条早雲の小田原城強奪の伝説ですが、下記のような説もあるようです。

明応5年(1496年)山内上杉顕定は、古河公方・足利政氏(成氏から家督を譲られ2代目)が、扇谷上杉朝良の領内に進攻するようになります。
小田原城にも侵攻をしてきたため、北条早雲や長尾景春らが扇谷上杉軍の援軍として参陣して大森藤頼を救出しているという。
実際のところは不明だが、大森藤頼が、山内上杉方に寝返りなどをしたために、北条早雲が、扇谷上杉方として小田原城の奪還を図ったのではないか?

3.両上杉家の争乱の終結

延徳元年(1489年)、古河公方:足利成氏は、家督を息子・政氏に譲った。2代目古河公方の足利政氏は、扇谷上杉定正が死亡して弱体化したことにより、山内上杉顕定と同盟を結ぶようになった。

長尾景春は、古河公方の山内上杉家への鞍替えに激怒する。長尾景春の息子:景英は、古河公方の意向に従い、山内上杉家に味方するようになり、長尾景春親子が敵対することになった。
もともと山内上杉家の重臣の家柄であった長尾景英は、山内上杉顕定に重用されることになり白井長尾家が再興することになる。

明応5年(1496年)山内上杉顕定は、古河公方・足利政氏が、扇谷上杉朝良の領内相模国に進攻を開始する。
長尾景春や北条早雲が扇谷上杉家の援軍として活躍し、山内上杉家に占領された城などの奪還などを繰り返しているようです。

永正元年(1504年)、北条早雲が今川氏親を伴い扇谷上杉家を支援するために、山内上杉家領内に進攻を開始する。
武蔵国・立河原で迎撃の陣を敷いた山内上杉・古河公方軍と激戦を繰り広げ、扇谷上杉方が勝利をする(立河原の合戦)

しかし、立河原の合戦に、扇谷上杉家の主力軍が集中してしまっていたために、山内上杉顕定の弟である越後国の上杉房能が、手薄になった河越城を攻撃し、また各地の扇谷上杉方の城を占領するなど、逆に扇谷上杉家が大ピンチ状態に陥ってしまう。
翌年、河越城を包囲された扇谷上杉朝良は、山内上杉顕定に降伏することになる。

こうして、長い間争っていた両上杉家の抗争は終結しました。

しかしこの争いによって両上杉家を脅かす存在が、生まれてしまったことに気づくのが遅すぎました。

4.下剋上の始まり

永正6年(1509年)、山内上杉顕定の弟である越後国の上杉房能が、越後の守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に殺害され、越後国を奪われる事件が勃発します。

激怒した関東管領:山内上杉顕定は、越後に長尾為景征伐の軍を起こします。

その隙を狙って、長尾景春が上野国で叛乱を起こし、北条早雲が扇谷上杉との盟約を破って相模国中部の攻略に着手します。
この時、長尾景春と北条早雲は、手を組んで行動を起こしたとも言われています。

そして越後では、関東管領:山内上杉顕定が、長尾為景の反撃に合い戦死してしまいます。

この事態に山内上杉家と扇谷上杉家は、今まで争っていた愚かさを思い知ることになるのです。
やっと手を組んだ両上杉軍によって一度、北条早雲は手痛い敗北をしました(権現山の合戦)
この戦いでは、扇谷上杉3将の最期の一人:三浦義同(道寸)の活躍が光っていました。

北条早雲は、この後、慎重に三浦義同(道寸)が治める三浦半島を攻略し扇谷上杉家から相模国を奪うことに成功します。

この後は、関東管領:山内上杉顕定戦死の報を受けて古河公方の親子でも内紛が起こります。
2代目古河公方:足利政氏は、山内上杉の支援の方針ですが、長男:足利高基は、消極的であり、意見の対立から古河公方の地位を巡る争いになります。
そこに次男:義明も絡むというカオス状態となります(もうそろそろお腹いっぱいです(w))
ちなみに次男は、房総半島の小弓御所に居を構えたため、小弓公方と呼ばれます。
※この古河公方内の争いを「永正の乱」と呼びます。

その後、北条早雲の子孫が関東を制覇し戦国大名:後北条氏の関東百年王国となるのは、知名度があるので本編はここで終わりとします。

ちなみに長尾景春は、山内上杉家で重臣に復帰した息子:景英から山内上杉家に戻るように説得されます。
息子の仲介によって仇敵になった主君:山内上杉顕定と会談することになりますが、結局最後まで山内上杉家に反抗する事を選択し、最後は今川家の元に身を寄せて72歳の生涯を遂げました。

後に北条早雲長尾景春を息子や家臣たちに「武略・知略に優れた勇士」として伝え聞かせたそうです。

5.関東戦国黎明期の3武将について

関東戦国黎明期の3人の武将の異なる個性とその結末に、何か教訓的なものと魅力を感じたのです。

長尾景春は、様々なチャンスを潰されて以来、冷静になれず意固地になり復活と成り上がりの機会を失った。

太田道灌は、智謀を隠さずに主君より目立ってしまった。実は知識豊富故に主君を軽んじて傲慢な性格だったことも仇となったとも言われています。

北条早雲は、目立たずに、しかし要所では強引に事を進め、そして慎重に計画を立てたため覇を唱えることになった。

みなさんは、誰の生き様に魅力と共感を感じたでしょうか?

関東戦国黎明期の歴史小説の第一人者:伊東潤先生の小説がお薦めです。

「黎明に起つ」は北条早雲の物語。

「疾き雲のごとく」は短編集で 太田道灌・足利茶々丸・三浦道寸など主人公として北条早雲と絡めた短編集。

「叛鬼」は長尾景春が主人公の小説。(おそらく長尾景春主役って初じゃないかな?)

ぜひとも、この3つの小説を原作に大河ドラマ化を実現して欲しいものです。

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