朝鮮三国志

朝鮮三国志⑦~白村江の戦いと高句麗の滅亡

朝鮮三国志もいよいよクライマックスです!
前回その⑥はこちら

唐の高句麗遠征も失敗に終わり熊津都督府の劉仁願は百済復興軍の鬼室福信からの攻撃に晒され撤退を考えるほど追い詰められてしまいます。

鬼室福信は、あるとき唐陣営にこのような手紙を送ったと言われています。
「唐軍はいつ本国に帰るのか?もし期日を教えてくれるんのであれば、国境まで見送りますのでお知らせください」
そこまで強気に出られるほど、百済復興軍の勢いは絶頂期に達していました。

そんな折、倭からの援軍を引き連れて百済王子・余豊璋が周留城に入城します。
出迎えた鬼室福信と百済復興軍の士気は最高潮になります。

周留城は要害の地にあり農作物などの栽培に適していないことを指摘し余豊璋は余避城へ本拠地を移すことを命じます。

倭の朴市秦田来津は現在の状況が唐の勢力の駆逐を優先すべきであるため要害の周留城にいるべきとの反対の意見を述べますが一蹴されてしまいました。

百済の軍勢が避城に移動したことで防衛ラインに綻びが出てしまい、新羅軍の侵攻を許すことになります。
この余豊璋の決断がターニングポイントとなり、百済復興軍の勢いに陰りが出始めます。

そしてあろうことか余豊璋は百済復興軍の英雄・鬼室福信を反逆罪で処刑してしまうのです!!

鬼室福信が殺害されたことを知った唐の高宗は、孫仁師に7000の兵を与え、熊津都督府の劉仁願の援軍を派遣します。
同時に新羅にも出撃命令が下され金庾信金仁問らも出陣します。
合流した唐・新羅軍は、白江にて倭の水軍を待ち構える作戦を取ります。

倭の水軍1万は、廬原君臣に率いられて百済領に向かっていました。
先鋒隊が、白江にて唐の水軍と小競り合いをしますが、互いに牽制しあっただけで終わります。

白江村の戦い

翌日、倭の水軍:1000隻 と 唐水軍:170隻の海戦が開始されます。
船の数では倭の圧勝でしたが、唐の船団は大型戦艦であり倭の船団の小型漁船並みであったため、その戦闘性能には格段の差があったと推測されます。

白江口に鶴翼で布陣する唐水軍に対し、倭水軍は魚鱗の陣形で相対しました。
百済と新羅の陸軍が河口で見守る中、唐と倭の水軍の激突が始まります!
矢による応酬が続いた後に、戦艦同士の衝突で切り込みが始まり、唐水軍による火計によって勝敗が決しました。
倭水軍は、炎に包まれて壊滅的打撃を被ってしまいます・・・・。

白江口に援軍に来ていた百済復興軍の余豊璋は倭軍の敗北に意気消沈し撤退して高句麗に逃亡してしまいます。

その後、百済復興軍は、周留城にて籠城戦をしますが、百済王子不在の状況と援軍が望めないに状況に絶望し、百済復興軍として活躍していた黒歯常之沙宅相如などの勇将たちも唐軍に降伏することになります。

百済王子・余豊璋の弟・余勇は倭に亡命し、百済王(クダラノコニシキ)という姓を賜ったと伝えられています。
この時に倭に亡命した百済人が大量に存在したと思われます。

百済軍の最後の抵抗は任存城のみとなっていました。
唐は、黒歯常之沙宅相如任存城の攻城を命じます。百済最後の砦は百済人によって落城することになりました。

唐は、百済を完全に治めるため人心掌握のため唐に人質となっていた百済王子・余隆を旧百済領を統治させることに決めました。
これで百済は完全に滅びることになりました。(662年)

淵蓋蘇文の死の影響

高句麗では何度も唐の侵攻を撃退した淵蓋蘇文が死去してしまいます。

淵蓋蘇文
は自分の死後に息子同士の争いを心配していたと言われていますが、それが現実のものとなってしまいます。
後継者として宰相の座に長兄:淵男生がなりましたが、弟:淵男健と淵男産との間で対立が生まれてしまう。
互いに自分の権力の座を脅かされるものと疑心暗鬼になり、遂には内乱に発展してしまいます。

権力争いに敗れた長男・淵男生が、行き場を失い唐に助けを求めてしまいます。
唐の高宗がこの機に乗じて、高句麗遠征に乗り出します。(668年)

唐・新羅の連合軍が平壌城に向けて進軍します。
度重なる戦争による疲弊や飢饉なども重なり、遂に平壌城は落城することになります。
高句麗・宝蔵王は、淵男産を伴い唐に降伏を願い出ます。
唯一、淵男健のみが徹底抗戦の姿勢をしますが、ついに降伏します。

高句麗は安東都督府と名付けられ、唐の薛仁貴将軍が治めることになりました。

三国の中で一番古い歴史を誇った高句麗もこうして滅亡を迎えることになりました。

白村江の戦いに敗北した倭の中大兄皇子は、唐からの脅威に備えるため対馬や筑紫の防衛の強化し「防人」「烽」を配置した。
国土防衛を強化し国内制度の充実を図るなど倭国が日本へ変貌する大転換期にもなったのである。
高句麗が滅びた668年、中大兄皇子は天皇に即位し天智天皇と名乗ります。

その⑧ 最終回へ続く

ここで大河ドラマ的な 史跡紹介(w)

数年前、滋賀県に安土城址などを見に行く途中、日野町の307号線を走っているところ 交差点「中在寺」付近で鬼室神社 という感じとハングル文字の看板を発見!!
これは「鬼室福信」に関係ある神社ではないかとピンときて寄り道をしてみたのです!

県道525号線をずっと進めば着くようであったが、県道とは名ばかりの一面畑の農道をひたすら進み続けました。

数キロ車で走ってやっと見つけたのが、この神社。鬼室神社です。
看板の説明に百済から日本へ来た鬼室福信の子・鬼室集斯がこの付近で暮らしていたとのこと。
やはり思った通り、鬼室福信に関連の神社でした。

韓国の忠清南道・扶餘郡では鬼室福信が祀られていることから、今でも日野町とは姉妹都市として交流が盛んということです。

近くの竜王町には、中大兄皇子の弟・大海人皇子ゆかりの「妹背の里公園」があり、古代史ロマンを楽しめそうな場所でもありました。
ぜひ滋賀県に行った際には 日本の友好国であった百済とのゆかりの地を立ち寄ってみてはいかがでしょうか?


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