朝鮮三国志

朝鮮三国志⑥~百済の滅亡

古代東アジアと日本の関係を見直すシリーズ。いよいよクライマックスの激動の時代です。
前回のその⑤はこちら

648年、唐の太宗皇帝は、新羅を支援するために高句麗征伐の遠征を開始します。
隋の時代から陸路での遠征で高句麗攻略に失敗しているため、海路からの遠征を取りました。
破竹の勢いで進軍する唐軍を止めるために高句麗は援軍を繰り出しますが、敗走を続けます。
唐軍が首都・平壌に差し迫った時に、唐の太宗皇帝が崩御したことにより唐は高句麗遠征を中止し撤兵することになりました。
唐は高宗が3代皇帝に即位します。

649年、唐の太宗皇帝崩御の報を受けて、百済が新羅に対して侵攻を開始します。
新羅の将軍・金庾信の活躍により百済の侵攻を撃退します。

このようなことが度々あるために、唐の高宗は新羅に圧力を加える高句麗・百済に対し新羅への侵攻を諭す国書を送ります。
 皇帝を補佐する唐の実力者・長孫無忌が、高句麗・百済への遠征に反対であり外交により唐の威勢を示そうとしていたのだと言われています。

654年、新羅の真徳女王が崩御します。女王には後継ぎがいなかったため、王族・金春秋が武烈王として即位しました。

武烈王(金春秋)を主役にした韓国歴史ドラマ「大王の夢」があります。
これも視聴していないのですが、新羅の英雄・金庾信との友情のドラマでもあるみたいです。

655年、新羅に武烈王が即位して国内が不安定な時期を見計らうように百済・義慈王は高句麗と連合して新羅に侵攻を開始します。

これに対し、唐は新羅支援のために、百済を牽制する意味で高句麗を攻めます。
唐は少数の軍勢でしたが名将の誉れ高い:蘇定方に率いられた軍勢でした。
高句麗は淵蓋蘇文が迎え撃ち、どうにか撃退するものの被害は高句麗の方が多かったと言われています。

百済は、新羅の刀比川城を包囲します。
新羅の金庾信金歆運は救援に向かいますが、百済軍に阻まれてしまいます。激戦の末、金歆運が戦死。 
新羅は百済に多数の城を占領されてしまうなど劣勢な状況に陥ってしまうのでした。

再三の新羅からの唐への百済征討の陳情に対し、唐はなかなか軍を動かしませんでした。

660年、唐の高宗皇帝は遂に百済への遠征を決定します。
これは前年に遠征反対論者の唐の実力者:長孫無忌が死去したことが関係していると思われます。

唐は、海路を渡り百済に攻め込みます。
名将:蘇定方を主力した兵力13万の軍勢です。

唐と新羅は、7月10日に百済の首都:泗沘で再合流し総攻撃の日と約束します。


唐は海路から白江に上陸し百済への侵攻を目指します。
百済軍は、白江口に迎撃の布陣を敷きます。 河岸での攻防の末に、唐の総攻撃で百済軍が敗走します。
唐の蘇定方将軍泗沘を目指して進軍し7月10日の新羅との合流を待ちました。

一方、陸路から百済を攻める新羅は、「黄山の戦い」百済の階白将軍の軍勢と激戦を繰り広げます。

階白は、唐・新羅とのこの戦いが興亡の一戦であることを理解し、万が一百済が滅びた時のことを危惧し妻子を殺害してから出陣したと言われています。

決死の覚悟で戦う階白は、新羅との会戦に4度戦いすべて勝利し、百済が優勢になります。

劣勢の新羅軍は、将軍:金萩純と金品日の息子が、死を恐れずに階白に勝負をかけますが、両名とも討ち取られてしまいます。
その将軍の息子たちの決死の戦死に奮い立った新羅軍に士気が沸き起こります。
新羅の金庾信が総攻撃を仕掛けると百済は持ちこたえることが出来ず、遂に階白は戦死、両軍甚大な被害を出した「黄山の戦い」はどうにか新羅の勝利に終わりました。

※この百済の将軍:階白も韓国歴史ドラマ「階白(ケベク)」の主役になっております。
これも見てみたいですね。

7/10に百済の首都:泗沘で合流を約束した唐・新羅軍でしたが、「黄山の戦い」の影響で新羅が合流の日に間に合うことができませんでした。
 激怒した唐の蘇定方が、新羅の軍監の処刑を命じました。
これに対し、新羅の金庾信が「黄山の戦い」の経緯を知らずに遅刻しただけで処刑されることの非を唱え、百済との一戦の前に唐との一戦も辞さないことを伝えると 唐の蘇定方は処刑を撤回しました。

こうして唐・新羅連合軍により百済の首都・泗沘の攻撃が開始されました。

百済の義慈王は降伏し遂に百済が滅亡することになりました。

百済の領土は「熊津都督府」として唐の一部になりました。
都督として唐の将軍:劉仁願が百済領を治めることになりました。

百済領から唐の将軍:蘇定方が帰国した後、百済の王族:鬼室福信が百済復興の旗揚げをします。  
その他 旧百済の遺臣として黒歯常之道深などが活躍しました。

泗沘城は、百済復興軍に落城寸前まで陥りましたが、唐からの援軍が来たために、落城は免れました。

旧百済の鬼室福信は、復興の象徴として百済王の血筋の存在が必要と考え同盟国・倭国に人質となっていた
百済王子の余豊璋の百済到来を望むようになります。

唐の高宗は、661年に蘇定方に高句麗征討を命じ、平壌に進撃を開始する。
新羅にも高句麗討伐の命を発したため、新羅は金庾信金仁問らが唐支援のために高句麗に進軍する。

しかし、百済復興軍の鬼室福信が旧百済領にて唐の兵糧庫でもあった熊津城を包囲していたため、新羅軍はそちらへの援軍を優先せざるを得なかったため高句麗への出兵が遅れてしまった。 

平壌城を包囲する唐の蘇定方は攻めあぐねていたため、援軍として唐の陸軍が平壌に進軍していたが、高句麗の淵蓋蘇文により撃退されてしまう。
1年の攻防戦の末、遂に唐・新羅連合軍は高句麗から撤退をすることになった。

唐は35万の大軍を動員したが、またしても高句麗を制することが出来なかったのである。

百済復興軍の激しい攻撃により都督・劉仁願は、旧百済領の熊津都督府の維持が出来なくなり撤退も検討し始めるまでの事態に陥っていた。

いよいよ盛り上がる百済復興軍は、倭国に百済王子の余豊璋の百済渡航を要請します。
前年(661年)に斉明天皇が崩御していた倭国では、中大兄皇子が執政として天皇の代わりに政治を代行していた。
中大兄皇子は、百済の鬼室福信の要請を快諾し、安部比羅夫、安曇比羅夫、朴市秦田来津、狭井檳榔など率いる軍勢に余豊璋を護衛させ、百済復興支援軍を派遣した。

こうして倭国が百済救援として朝鮮半島に出兵したのであった。

その⑦へつづく

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です