中華史戦国七雄

中華:戦国七雄の時代① 魏の台頭

紀元前の中国では、周王朝の威光が消えて、斉、晋、秦、楚、宋から 春秋五覇と呼ばれる権力者が現れた春秋時代となった。

覇者を輩出した周王朝に近い晋は、六人の重臣たちが覇権を争い3晋と呼ばれる3つの勢力が

晋から魏・趙・韓が独立(紀元前453年)

中でも魏は、文侯の時代に優秀な人材を集め内政の李克・西門豹、軍事の呉起・楽羊によって勢力が拡大する。
中でも呉起が軍事の才能で秦を攻めて5つの城を奪い、隣国の韓や趙を牽制した。
呉起は、2大天才軍師の孫子・呉子として呼ばれるあの呉子のことである。


AD403年 魏・趙・韓が周王朝から諸侯として認められ正式に王国として成立
ここから中国は戦国時代と呼ばれる時代に突入する。


有力な国家は 斉・秦・楚・魏・趙・韓の七か国「戦国七雄」と呼ばれる

※これ以外にも宋、越、衛、中山、蜀など小国はせめぎ合い、周王家もまだ存在している。


魏王は武侯に代替わりし、呉起が疎んじられたため、呉起は楚に亡命してしまう。
余談だが、楚王・悼王に重宝された呉起は、法治主義の思想で改革を断行し楚が強国として成長する基盤を作った。しかし王が代替わりすると急速な改革に反対する一派により呉起は襲撃を受けて殺害される。

三代目・魏王の恵王の時代に、魏の盛衰を左右する2人の人物が登場する

斉の孫臏と秦の商鞅である。

孫臏は、天才兵法家・孫子と呼ばれるあの人物のことである。
孫臏にはこんなエピソードがある。

魏王・恵王の時代に魏の将軍として登用された龐涓は、若き頃に共に兵法を学んでいた孫臏の才能に嫉妬に似た感情を持っていた。
孫臏が斉に仕えてしまった場合は、魏の障壁になると考えて陥れようと計画する。
魏に孫臏を呼び寄せたうえで、孫臏が斉の間者であると冤罪に陥れて、両足を切断と黥罪(額に入れ墨)をした。
斉から使者として将軍:田忌が魏に来訪した際に、孫臏はどうにか魏からの脱出に成功し、魏と龐涓へ復讐する機会を狙った。


商鞅にはこんなエピソードがある。
魏の宰相:公叔痤は死去する際に、恵王に後継の宰相として公孫鞅(後の商鞅)を推挙した。
「もし採用しないのであれば、公孫鞅はいずれ魏にとって害を及ぼすため殺害するように伝えた」
しかし恵王はこれを受け入れなかった。
公孫鞅は、魏を去り、秦の若き君主孝公に面会する機会を得て、弁舌で秦王の信任を得ることになる。

秦は商鞅により法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いた。

天下に覇を唱える魏は趙と対立することになった。
魏は龐涓を派遣する。巧みな戦術で趙の首都:邯鄲を包囲する。
趙は同盟国の斉に援軍を求めた。
斉の威王は主将:田忌と軍師:孫臏に援軍を指示した。

孫臏は趙の邯鄲に向かわずに魏の首都:大梁を包囲してしまった。
虚を突かれた魏軍は趙から撤退し、首都を救援に引き返して来た。
戻ってきた魏軍を斉の孫臏は散々に打ち負かした。(桂陵の戦い)
後に、龐涓はこれが孫臏による作戦であったことを知り悔しがったという。
これは兵法三十六計で「囲魏救趙」という戦術の基本に数えられている。

韓は、魏が斉に桂陵の戦いで敗退したことを好機とみて斉と結んで魏に攻め込んだ。
しかし韓は魏に五戦全敗し逆に韓が魏から反撃に合い危機に陥った。
韓は斉に救援を求めたため、斉が魏領内に進軍を開始した。
斉の進軍に驚いた魏は撤退したため、韓は滅亡を免れた。

魏軍が魏領内に帰還したため、斉の孫臏は計略を考えて魏領内から撤退を開始した。
撤退初日は露営地に十万人分の竈を作らせ、翌日はその半分の五万人分の竈、その次の日は二万人分の竈と前日の1/2の数を作るように命じたのである。

斉軍の竈の数が日々減っているため魏の龐涓は「戦意の低い斉軍は、脱走兵が続出しているのだろう」と考えた。
そこで龐涓は敵軍がすぐ近くにいると考え歩兵部隊を残して騎兵隊のみを率い、昼夜兼行で斉の追撃を強行した。

孫臏は魏軍の進行速度から、夕方ごろに狭隘な馬陵に到着すると計算し、馬陵の街道脇の大樹の木肌を削り、白木に墨で「龐涓この樹下に死す」と書いた。

夕方にこの付近で松明の火が付いたらこの大樹を狙って矢を放てと1万の弩兵に命じた。

夕刻になり、魏の龐涓が馬陵に到着すると街道脇にある大樹に文字が書いてあることに気づくが周りが暗くて読めなかったため松明で木を照らした。
その瞬間、斉軍からの弩の一斉射撃によって龐涓とその軍勢は絶命する。
魏の大将・太子申の軍も大混乱に陥り、斉に捕らえられるという大失態を演じる。
(馬陵の戦い:紀元前342年)

名将:龐涓を失った魏は更に、秦の商鞅からの侵攻を受けることになる(紀元前340年)
迎え撃つ魏の総大将は公子卯であり、商鞅と公子卯はとはかつて魏で親友であった。
商鞅はこれを利用して和議を結ぶためと公子卯を欺いて自陣に招き、これを捕虜にして混乱する魏軍を打ちのめした。
魏の恵王は敗戦の報を受けて、公叔痤の言葉に耳を傾けて商鞅を登用または殺害しなかったことを悔いたという

余談であるが、

早急な改革と秦王族にも容赦しなかった商鞅を恨む派閥が多かったため、紀元前338年に孝公が亡くなった後に謀反の罪を着せられてしまう。
商鞅は魏に逃亡を図ろうとするが魏の公子卯を欺いたことで魏からも恨まれていたため、結局は秦で車裂の刑に処せられてしまった。

これらの出来事により魏は、戦国七雄の覇者の座から転落していくことになる。

呉起の改革によって国力を蓄えた楚も、南方の雄:越と呉を併合して勢力拡大に成功する。

時代は、魏に変わって秦と斉の勢力の2強の時代となっていく。

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