日本史関東戦国黎明期

関東戦国黎明期③~享徳の乱(長尾景春の乱)

関東戦国黎明期を紹介するシリーズ第3弾です!
遂に 宿命の対決・太田道灌と長尾景春の直接対決が始まります!
前回はこちら

1.長尾景春の乱

1476年(文明8年)太田道灌が300騎を従え、今川氏の跡目相続をめぐる内紛を解決すべく駿河国へ調停に遠征に行った隙を狙ったように長尾景春は鉢形城に拠って関東管領上杉家に反旗を翻します。

古河公方と対峙していた上杉首脳陣営を孤立させるべく山内上杉顕定・扇谷上杉定正の拠る五十子の陣への道を封鎖します。

関東に帰って来た太田道灌は、五十子の陣へ参陣をすべく出陣します。
長尾景春は途中で太田道灌の陣を訪れて自分に味方するように説きますが太田道灌はあくまで主君に忠節を尽くす道を選択します。

もし、この時太田道灌と長尾景春が連合していたら北条早雲の登場を待たずして関東の戦国史は新たな幕が開いたのではないか?と妄想をしてしまいます。


五十子の陣に参陣した太田道灌は、長尾景春の叛乱を治めるために、家宰職を長尾忠景から返上させて長尾景春に就任させるように上杉家首脳陣に説きますが、逆に太田道灌にも謀反の噂が出る始末でした。
太田道灌は、一旦、江戸城に帰参することになりました。

翌年1477年(文明9)正月、遂に長尾景春は、五十子の陣を急襲し山内上杉顕定、扇谷上杉定正、長尾忠景らを撃破します。
上杉家首脳陣は上野国に退却することになりました。
この後「上杉弱し」と見た関東各地の豪族が長尾景春に呼応しその勢力は関東管領上杉領内を二分することになりました。

景春に呼応した武将は、相模国の矢野氏、金子氏、越後氏、大石氏、海老名氏武蔵国・豊島氏の一族でした。

更に、古河公方足利成氏と 成氏派の房総半島の千葉氏も 長尾景春の支持を表明します。

享徳の乱の第二幕・長尾景春の乱が勃発します!

相模国の関東管領の居城を次々と落城させた景春一党は勢いに乗り、景春一党の小机城主:矢野兵庫助が、太田道灌の甥:太田資忠の守る川越城にまで奇襲をするようになります。
しかし、勝原で遭遇した両軍が激戦の末、太田資忠が勝利します。(勝原の合戦)

上杉家首脳陣が上野国に退却したことにより、武蔵国に残る太田道灌の勢力だけが頼りの綱になりその動向が注目されました。

2.太田道灌の武蔵国制圧

太田道灌はまず、関東管領の勢力圏である江戸城と河越城の連絡を妨げる相模国の各拠点:溝呂木城/小磯城を落城させて行動範囲の確保をします。

◇江古田・沼袋の戦い
そして武蔵国の豊島泰明の平塚城を急襲します。
豊島氏の当主:豊島泰経は、平塚城救援のために援軍を派遣し「江古田・沼袋」で太田道灌の軍勢と正面決戦をすることになりました。(江古田・沼袋の戦い)
 この戦いに勝利した太田道灌は、豊島氏の居城:石神井城を包囲し落城させます。
豊島泰経は相模国の小机城の矢野兵庫助を頼って落ち延びました。

3.太田道灌と長尾景春の直接対決

◇用土原の戦い

武蔵国の豊島氏の勢力が崩壊したことに勢い付いた、関東管領上杉軍は、五十子の陣を 長尾景春の勢力から奪還することに成功します。
次々に味方が敗走することに焦る長尾景春は、自ら軍勢を率いて五十子の陣に出陣しました。
太田道灌が、関東管領上杉首脳陣を救援にすべく、五十子の陣に目指して進軍します。

太田道灌と長尾景春の直接対決の時が迫っていました。

太田道灌は、長尾景春不在の鉢形城に進路を変えて進みました。これを見た長尾景春は進路を防ぐ為、次郎丸という場所に先回りをして太田道灌を待ち伏せします。
しかしこれは太田道灌の陽動作戦で、長尾景春の動きを見越して逆に用土原という場所で待ち構えて長尾景春軍めがけて突撃を開始しました。
完全に意表をつかれた長尾景春は長野為兼などを討ち取られるなど多数の死者を出して大敗し、鉢形城に退却をすることになります。

この「用土原の合戦」は、「景春の乱」の中でもっとも激しい合戦であったと言われています。

◇荒巻の戦い

長尾景春の要請に従い、傍観の姿勢をとっていた古河公方:足利成氏が遂に動き出します。
援軍として鉢形城と上杉軍が駐屯している陣の間にある という場所に布陣し、関東管領上杉軍の動きを牽制します。
太田道灌も荒巻という場所に布陣して古河公方の動きを牽制します。
さらに長尾景春は同族の越後の長尾為景(上杉謙信の父)にも援軍を要請し、膠着状態となり小規模な合戦があったものの勝負はつかず(荒巻の合戦)


◇塩売原の戦い

荒巻に陣を張った太田道灌と雌雄を決すべく長尾景春は荒巻に進軍します。
太田道灌は決戦を避けるために、塩売原に陣を移動。塩売原は、川と岩の嶮崖の地で攻めるのに難しい場所であった。
両者とも探り合いの膠着状態が続き、11月になり雪が降り始める。
 膠着状態を打開するために、古河公方が、上杉首脳陣が籠る、白井城(上野国)に進軍を開始しました。
しかし、なぜか長尾景春が兵を引き鉢形城へ退却をしてしまう。
白井城の上杉軍と太田道灌の挟撃されることになったため古河公方は孤立してしまい、和睦を申し出ることになった。

4.乱の終結

◇小机城の戦い

用土原の戦いなどで長尾景春を打ち破り、古河公方とも和睦をしたため、太田道灌は、相模国の景春勢力の一掃に集中することになります。
豊島泰経が逃げ込んだ、矢野兵庫助の居城「小机城」を攻め込みましたがなかなかの堅城で、2ヶ月の持久戦となりさすがに兵士たちの士気も落ち始めます。

そこで太田道灌は一句詠います
「小机はまず手習いのはじめにて、いろはにほへと散りぢりになる。」
地名(小机=子供の机)に掛けて、こんな小城は、子供の学問「いろは歌」と同様に楽勝だ というシャレの歌に兵士達は大いに受けて士気が高まり、一気に攻め懸かり、小机城は落城することにあったという伝説が有名です。

更に景春派の相模の豪族・金子、大石、海老名、加藤氏の居城を次々に陥落させ武蔵・相模の景春派の勢力を鎮圧します。


いよいよ太田道灌は、長尾景春の居城:鉢形城に総攻撃を開始します。
長尾景春は持ちこたえることが出来ず、鉢形城を放棄して秩父へ落ち延びることになります。

その後、豊島氏の残党が平塚城で挙兵したり、和睦したはずの古河公方が後ろで糸を引いて房総半島の千葉孝胤が反上杉の行動をするなど、太田道灌が、武蔵国、相模国、房総半島と転戦し、鎮圧に奔走することになります。

その隙に長尾景春が鉢形城を奪還してはすぐに太田道灌によって制圧され、何度も長尾景春の神出鬼没のゲリラ戦により奪還・落城の繰り返し一進一退の攻防は繰り広げられます。

このような状況が続いて1480年(文明12年)古河公方:足利成氏が室町幕府に関東管領上杉家との和睦調停を申し出ると、長尾景春も仕方なく、その和睦に同調することになります。

こうして享徳の乱~長尾景春の乱は、和睦という形で、終焉することになりました。
これを「都鄙合体」(1480年)と呼びます。

乱の終結の立役者である太田道灌の名声が関東に轟くことになります。

しかし、この太田道灌の名声を快く思わない人物がいました。

太田道灌の主君である 扇谷上杉定正です・・・・・。

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