琉球王国

琉球王国の歴史③第二尚氏王朝・勢力版図拡大

第二尚氏王朝

尚円王から始まる第二尚氏王朝は19代・400年の王朝(1469年~1872年)です。

初代・尚円王の死後は、尚円王の嫡子が幼少であったため、弟の尚宣威王が2代王となりますが、数か月で王の座を譲ことになります。
これは、尚円王の王妃が息子を王に就かせるための策謀だったのではないかとも思われます。

3代王:尚真王の時代に中央集権体制の強化と勢力範囲の拡大政策をはじめます。
各地の有力按司たちを首里に住まわせて各地には按司掟と呼ばれる守護職を配置した。

尚真王の時代に琉球王国の勢力下になった離島の状況を説明しておきます。


◇与那国島

与那国島では、人口調整をするための久部良割(くぶらばり)や人枡田(とんぐだ)という残忍な悪しき風習がありました。
その悪しき風習に立ち向かった女傑:サンアイ・イソバという人物がいました。
イソバの4人の兄弟たちと島の按司たちを打ち倒し与那国の酋長として君臨し、島民から慕われたと伝えられています。

サンアイ・イソバは180cmの巨魁の女性だったとも言われていますが、島から大きな草鞋を海に流して与那国島には鬼がいるという噂を作り 外敵からの侵攻を防いでいたという話もあるため、そのような伝説が残っているのではないかと推測されます。


◇宮古島

14世紀の宮古島は目黒盛豊見親の勢力と、中山王国から認められていた与那覇勢頭豊見親の二つの勢力に分かれていました。
目黒盛豊見親の5世孫にあたる空広という若者がいました。ライバル関係にあった与那覇勢頭豊見親の孫である大里大殿が、空広の非凡な才能を見込み、養子とします。
空広仲宗根 豊見親と名乗り、宮古島の統治者となりました。
仲宗根 豊見親は首里城に行き、尚円王に謁見し琉球王国からも宮古島の統治者として認められる存在となりました。

◇石垣島(八重山諸島)
島は各地の按司たちがバラバラな状態で統一された勢力がいませんでした。
有力按司としては、長田大主、遠弥計赤蜂(オヤケアカハチ)、仲間満慶山、明宇底獅子嘉殿などがいました。

オヤケアカハチの乱

宮古島の仲宗根豊見親は石垣島の按司たちに琉球王国への勢力下に従うように要請します。
長田大主、仲間満慶山、明宇底獅子嘉殿
などは琉球王国への朝貢に賛成を示しますが、
オヤケアカハチは朝貢に反対する勢力を結集します。
オヤケアカハチ
獅子嘉殿や仲間満慶山逆と討伐して全権を掌握します。
長田大主は逃亡して命は取り止めました。
石垣島全土を手中に収めたオヤケアハチは竹富や波照間、小浜島などの八重山諸島を支配してしまいます。
さらに宮古島への侵攻を始めようとします。

1500年、宮古島の仲宗根豊見親(空広)から琉球王国にオヤケアカハチが反旗を翻した報を受けて尚真王は、3000の兵を動員し石垣島討伐軍を派遣します。
オヤケアカハチに追われた石垣島の長田大主が琉球王府軍を先導して石垣島に向かいました。
当初、石垣島に上陸しようとした琉球王府軍を手玉に取るなどオヤケアカハチが優勢でしたが、次第に押されはじめ戦闘開始2日後に、戦死してしまいます。八重島諸島全土を巻き込んだオヤケアカハチの乱は鎮圧されました。

※オヤケアカハチは、現在も八重山諸島・石垣島の英雄として石垣島・大浜に銅像が建立されています。

与那国島の乱

(第一次与那国征伐)
1500年、宮古島の仲宗根豊見親を介して琉球王国へ朝貢するように与那国島に呼びかけられます。
与那国島のサンアイ・イソバは平和的交渉を模索しようとしますが、仲宗根豊見親の子・仲屋金盛が与那国島に侵攻を開始します。
サンアイ・イソバ軍は4人の兄弟全員を戦死させてしまいますが仲屋金盛の率いる宮古軍の撃退に成功します。
仲宗根豊見親は息子の失態を恥じて首里には、戦況の報告をしなかったと伝えられています。
サンアイ・イソバ存命の間は、与那国島は独自勢力を保つことになります。

(第二次与那国征伐)
1510年サンアイ・イソバの死後、与那国島は鬼虎という人物が支配するようになりました。
1522年宮古島の仲宗根豊見親が鬼虎征伐に侵攻を開始します。
鬼虎は豪傑として名高いため、仲宗根豊見親は策を弄します。 
美女4人を引き連れて鬼虎を酒に酔わせたところを誅殺するというものです。
まるで鬼退治伝説でありがちな作戦ですが(w) この作戦が見事成功して与那国島は征伐されることになりました。

このように3代・尚真王の時代に琉球王国の版図が拡大していきました。


4代・尚清王の代には、奄美大島の与湾大親叛乱を起こしたと噂があり、遠征軍を起こします。
結局は、与湾大親に嫉妬した有力按司の讒言だったようです。

5代・尚元王の代に薩摩の島津貴久と友好関係を築くことになります。
しかし島津からの使者である僧侶・雪岑への接待の待遇で薩摩と摩擦が起こることになってしまいます。
後の薩摩と琉球王朝の波乱の幕開けこの頃から始まっていたのかもしれません。
また奄美大島への親政も行ったと記録があります。

6代王・尚永王には嫡子がいないため、3代王・尚真王のひ孫にあたる尚寧王が7代王に即位します。

この7代・尚寧王の治世は、琉球王国苦難の時代となるのです。

その④へつづく

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