関東戦国黎明期④~ 長享年中の乱
関東戦国黎明期を紹介するシリーズ・4弾です。
前回はこちら
1.「都鄙(とひ)合体」後の関東の情勢
「都鄙(とひ)」とは、「都(京の都)」と「鄙(都から遠く離れた田舎=関東)」の事で、
「都鄙合体」とは室町将軍と関東公方が和睦した意味になります。
20年以上も継続した関東の戦乱に終止符を打った太田道灌の名声が関東に鳴り響きます。
太田道灌の力によって、主君の扇谷上杉家の威光も関東管領の山内上杉家を上回るようになります。
関東管領:山内上杉顕正は、この状況を苦々しく思い、扇谷上杉家の追い落としを考え始めるようになります。
一方、扇谷上杉定正は、家臣の太田道灌の名声が高まることに不安を覚え疑心暗鬼になってしまいます。
このような時期に、室町幕府は、関東公方を古河公方・足利成氏に就任させ、堀越公方・足利政知には、伊豆一国を与える人事を決定します。
この人事は、関東管領・山内上杉顕正が主導で調整を行ったため、扇谷上杉定正が難色を示し、この人事に堀越公方も不満を覚えます。
関東管領・山内上杉顕正は、太田道灌に堀越公方と扇谷上杉定正の説得役をするように依頼します。
説得は成功したものの、堀越公方は、扇谷上杉家と反古河公方の行動を取り、巻き返しを目論むようになります。
こうした動きは、関東公方として実権を回復した足利成氏の猜疑心を生み出す結果となり関東の平和の雲行きが怪しくなっていきました。
そして家臣の太田道灌の名声が主君筋の足利家・上杉家よりも高まっていることに対して「山内上杉」「扇谷上杉」「古河公方」「堀越公方」の間で、様々な思惑が暗躍していってしまうのでした。
2.太田道灌暗殺
太田道灌の名声を一番疎ましく思っていたのは、直属の主君である扇谷上杉定正であった。
心無い家臣により太田道灌叛乱の噂まで出始め、その噂を信じた扇谷上杉定正は文明18年(1486年)7月26日、相模国・糟屋を訪れていた太田道灌に刺客を送り込むことを決心してしまいます。
※実は太田道灌を殺害することで扇谷上杉家を追い落とす為に、山内上杉家が仕掛けた罠だったとも言われています。
太田道灌は、入浴中に不意打ちを喰らわされ斬り殺されてしまいます。
死の直前に太田道灌は、「当方滅亡!!」と絶叫したと言われています。
※これで当方(上杉家)は終わりだ。という意味ですが、これが扇谷上杉家の事を指していたのか?両上杉家の事を指していたのかは不明。
関東を駆け巡った忠義の武将:太田道灌は、主君によって暗殺されるという悲劇の最期を遂げてしまいました。
※こういう「判官贔屓な」話は日本人大好きですよね。 NHK大河ドラマの主人公にピッタリだと思いますが如何でしょう?
太田道灌も下剋上という新しい潮流に乗れなかった古風なタイプだったということかもしれません。
3.長享年中の乱
太田道灌を暗殺したことで、扇谷上杉定正から人心は離れて行ってしまう。
関東管領山内上杉顕正が関東の諸将を終結して、扇谷上杉討伐の軍を挙げます。
両上杉家による権力争いが始まり、再び関東は戦乱に巻き込まれます。
長享年中の乱の勃発です。
◇実蒔原の合戦
長享2年(1488年)鉢形城より関東管領:山内上杉の軍勢が出撃した。
向かう先は、扇谷上杉定正の弟:朝晶が守る相模国・七沢城であった。
扇谷上杉定正は河越城を出撃し急ぎ七沢城の救援に向かうが、間に合わず、七沢城主:扇谷上杉朝晶は乱戦の中で討ち死にしてしまう。
その後、扇谷上杉軍が戦場に到着し、乱戦で陣形の乱れた山内上杉軍を急襲し、兵数で劣勢の(山内上杉:扇谷上杉=5:1)扇谷上杉軍が5倍の戦力さにも関わらず圧勝となった。
◇須賀原の合戦
同年6月に、扇谷上杉定正は、関東管領・山内上杉家の領地に侵攻を開始する。
今まで影を潜めていた長尾景春は、関東管領・山内上杉家への復讐の鬼と化し、扇谷上杉軍に味方をすることになった。
武蔵国・須賀原で対峙する両軍の戦力比は 山内上杉軍2000騎、扇谷上杉軍700騎 と3倍以上の差があったため、緒戦は、山内上杉軍が優勢に戦を進めていた。
更に扇谷上杉家の養子:朝良が、敵陣深くに突入してしまい陣形が乱れ不利な状況になる。好機と見た山内上杉軍が、総攻撃を開始したが、伏兵の長尾景春200騎による奇襲が成功し一挙に形成が逆転。
この戦いも扇谷上杉軍の圧勝に終わります。
◇高見原の合戦
同年11月に勢いに乗る扇谷上杉軍は山内上杉の居城:鉢形城付近まで侵攻する。
この戦いには、北条早雲と長尾為景(上杉謙信の父)も扇谷上杉陣営に名を連ねている。
戦力比は、山内上杉軍:3000騎、扇谷上杉軍:2000騎となり、扇谷上杉家の勢力が拡大しているのがわかります。
突然の敵襲に、驚いた山内上杉軍は鉢形城を出て迎撃しますがここでも大敗してしまいます。
扇谷上杉軍に北条早雲の軍勢も到着して勢いを増します。
その後、荒川河畔を境に両軍に睨み合いが続きました。
しかし扇谷上杉定正が陣中で落馬したことが原因で死亡してしまいます。
養子の朝良が新当主となり、撤退を余儀なくされました。
これら3つの戦いを総称して長享年中の乱と呼びます。
意外にも勇将としての実力を見せた扇谷上杉定正でしたが、突如の死により、関東の動乱は、新たな展開を見せます。
関東管領:山内上杉顕正は、古河公方:足利成氏と手を組み、扇谷上杉家によって失った勢力の挽回を図ります。
そして扇谷上杉家に味方しながら、伊豆から野望を秘めた北条早雲が遂に牙を剥きました!