朝鮮三国志

朝鮮三国志⑧~新羅の三国統一とその後

ついに朝鮮三国志完結編です! 
前回のその⑦はこちら

高句麗、百済の2か国に侵攻されて絶体絶命だった新羅は、唐と同盟を結ぶことにより、逆に2か国を滅ぼすことに成功した。
しかし今度は、唐による羈縻政策に取り込まれることになってしまうのであった。

■羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。
 羈は馬の手綱を意味し、縻は牛の鼻綱の意味である

高句麗は安東都督府、百済は熊津都督府、新羅は鶏林大都督府 と名付けられ唐の管轄エリアとみなされてしまいます。

新羅の文武王は、この屈辱に対して、唐に臣従をする姿勢を示しつつ、熊津都督府の侵攻するが失敗してしまいます。
武力による侵攻が成功しないため、旧百済領を新羅へ譲渡するよう陳情をするが、唐の高宗が当然認めることはなく却下されます。

安東都督府では旧高句麗の遺臣たちに不穏な動きがあった。
高句麗の遺臣・高延武が蜂起をしたのであった。新羅は秘密裡に1万の兵を高延武に援軍として送った。
そして高句麗王・宝蔵王の孫であった高安勝を傀儡として高句麗復興軍の全面支援を行った。

新羅は、単独で唐に対抗できないため、唐に臣従しつつ、裏では高句麗領と百済領の両方を侵攻するという政策を取ったのであった。

670年新羅は、金品日、金天存、金文頴の3将軍に命じて熊津都督府に侵攻して占領に成功する。

672年、唐の高宗は激怒し、4万の兵を熊津都督府に出兵させた。石門の戦いで大敗北した新羅は、唐に謝罪の使節を送ることになった。
しかしこの謝罪も形式だけのもので高句麗復興軍と協力して唐からの勢力圏奪取を狙っていたものと思われます。

その頃の唐は、北方の靺鞨が勢力拡大をしており、熊津都督府までの支配まで手が回らなくなっていたこともあり、新羅の熊津都督府の実効支配を黙認するようになっていたのかもしれません。

その後、靺鞨、新羅、高句麗復興軍が共同戦線を起こして唐の勢力は次第に朝鮮半島から撤退していくことになります。
新羅は安東都督府の南部を支配圏におくことに成功し、靺鞨には英雄・大祚榮が現れ、高句麗の一部を含めた渤海を建国します。(698年)
※渤海は日本に30数回親善使節を送り友好関係を結んでいたようです。

こうして朝鮮三国志は、新羅により一応の統一が果たされますが、北には渤海という南北時代を迎えることになったのです。
新羅と渤海は戦うことがなく、冷戦状態であったため、一時的に朝鮮半島に平和が訪れました。

韓国歴史ドラマ・大祚榮(テジョヨン)は渤海建国の英雄のドラマです。

その後892年に新羅は弱体化し分裂し、後新羅、後高句麗、後百済という後三国時代という時代を迎えることになります。
※往年の人気漫画の続編がスタートするような展開を見せるのであるが・・・

後朝鮮三国志へ続く

韓国歴史ドラマ「三国記」は、中国・隋の時代辺りから新羅統一までを描く朝鮮三国時代の総集編的なドラマになっているそうです。
※これも視聴していない。機会があれば見てみたいです

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