中華・戦国七雄の時代② 縦横家の暗躍(1)
戦国七雄の中で一歩抜きん出た魏でしたが斉に敗れたことで陰りが出て秦と斉の国力が高まります。
秦は、恵文公の時代になると魏への攻勢を強めていきます。
BC332年 将軍:公孫衍(こうそんえん)が魏を攻めて、黄河以西を魏から割譲することに成功。
BC329年 秦の王弟:樗里疾(ちょりつ)が黄河を越えて魏に攻め入り更に勢力圏を拡大します。
この頃、諸国を遊説する縦横家と呼ばれる思想家たちの活躍が目立ちます。
「合従・連衡」という外交政策を諸国の利害に絡めて巧みな弁舌で国王に説き成功すると国事を委ねられることがありました。
今回は代表的な縦横家の蘇秦、張儀、陳軫、公孫衍を軸に説明していく
蘇秦は、秦:恵文公に謁見し、秦を中心に各国を臣従させる「連衡」を論じました
しかし当時の秦では商鞅の事件があったばかりで論客に対する不信感があり、蘇秦の策が採用されることはなかった。
その後、秦に訪れた張儀と陳軫は、恵文公に重んじられるようになった。
二人は縦横家としてライバル関係になっていきます。
あるとき張儀が魏との領土の交換を有利に交渉を進めることに成功し領土が拡大します。
恵文君の信任を得た張儀は、宰相に任命されることになる。
張儀はかつて蘇秦が提唱した秦を中心とした「連衡」の外交方針を進めていくことになる
張儀と出世争いに敗れた陳軫は秦を離れて楚に出奔した。秦の将軍:公孫衍も張儀と不和になったため魏に出奔する。
陳軫と公孫衍は楚と魏に出奔した後はしばらく落ちぶれていた。
ある時、陳軫は公孫衍の元に訪れて再び世に出るための大博打を投じる。
その策とは、名将として知名度のある公孫衍を魏:恵王に謁見させ、その後、燕と趙に訪問すると公言させる。
その後戦車30乗を用意して出発の準備をさせるというものであった。
魏で情報収集していた近隣諸国の間者たちが「魏の使者として公孫衍が燕・趙に訪問する」と自国に報告をすることで
近隣の韓と斉は、魏と趙・燕が三国で結託するのでは?と疑心暗鬼を産ませるというものであった。
結果として、斉が公孫衍に接触し、魏・趙・燕の三国が斉に攻撃しないようにと仲介を依頼した。
この出来事をきっかけに公孫衍が再び縦横家としても世に出る機会を得ることになったのである。
公孫衍は魏・趙・韓・燕・中山を連合することに成功し、それぞれの国がそれぞれの王を認め合う「五国相王」の関係を築いた。
一方、陳軫は、公孫衍の魏・趙・韓・燕・中山連合が結成されたという情勢を利用し、楚と秦の関係強化させることにより楚の強化を目論んでいた。
陳軫が斉に使者として赴いていた頃に、楚が魏を攻め込み、その勢いで斉にも軍勢を向けようとしていた。
斉王から相談を受けた陳軫は、斉に来たついでに斉に恩を売っておいても損ではないと考え 楚の将軍:昭陽に対し斉から撤兵するように働きかけた。
この陳軫のついでに行った行為が「蛇足」の由来になったということを うんちくとして記載しておく。
天下は 魏・趙・韓・燕・中山連合と秦・楚・斉連合 という構図になった。
しかし秦・楚・斉の三国同盟は、足並みが揃わずに連合は決裂した。
楚・斉は秦を阻むために魏・韓を共同して攻める動きを見せたため、公孫衍が魏軍を率いて斉を攻撃するが敗北した。
張儀は魏の切り崩しのために魏に赴いた。
魏は背後から秦に攻撃されることを怖れ、張儀を介して秦と和睦する道を選んだ。
魏が秦と同盟することになったため、魏・趙・韓・燕・中山の「五国相王」は瓦解することになる。
その頃、蘇秦は燕に遊説していた。
燕王に対し、趙と同盟を結び勢力拡大を強める秦に対抗すべきだと説いた。
趙・燕の同盟が成立したことで、それに韓も同調した。
この頃には魏と秦の同盟関係に亀裂が入り出していた。
更に蘇秦の遊説によって強大な秦に対応するために諸国が合従して同盟を結ぶ気運が高まり出した。
そして紀元前318年 魏・韓・趙・楚・燕・斉の六国合従同盟が成立する。