中華史戦国七雄

中華・戦国七雄の時代⑧秦1強の時代(3)~戦国3君の活躍~

長平の戦いで秦に大敗北を喫した趙は、王陵率いる秦の軍勢に国都:邯鄲を攻め込まれ、国家を挙げて9か月もの間、凌いでいたが、国家存亡の危機に瀕していた。

戦国四君の一人、趙:平原君は、毛遂(もうすい)など食客30名を引き連れて楚に救援要請に赴いた。

楚:考列王は先年に秦の白起に攻め込まれた際に、国都を遷都するなど秦に脅威を感じており、趙の救援に積極的ではなかった。

その時、毛遂は剣を握り締めて考烈王の前に立ち「白起は楚の国都を焼いて楚の祖先を辱めた。合従は趙のためだけではなく、楚の恨みを晴らすためでもある」と説きました。
その勢いに負けて楚:考烈王は趙の援軍に応じました。
また戦国四君の一人である魏の信陵君平原君の姉を妻としていたため、援軍をすべきと魏:安釐王(あんきおう)に陳情するが受け入れられなかった。
 信陵君は自分の軍隊だけで趙救援に向かうには少ないため、国軍を統率する将軍:晋鄙(しんひ)を騙し、命令を拒否した晋鄙を殺害してまで軍権を握り、独断で趙救援に向かいました。

楚は春申君が、魏は信陵君が軍を率いて趙の救援に向かいました。

一方、邯鄲の状況は、攻めぐねる秦:王陵に代わり、王齕(おうこつ)が総大将となり、邯鄲を包囲して兵糧攻めにしていた。趙は、いよいよ軍も民衆も疲弊の極みに達していた。

趙に戻った平原君は、家臣の李同から「国難で軍や民衆は飢えているにも関わらず王侯貴族は未だに着飾り、贅沢三昧であることが嘆かわしい」と諭されます。

平原君は家財を投げうって軍と民衆に食料などを分け与えました。
その恩義を感じた李同3000人の決死隊を募り、秦軍に突入を数度決行し、秦の軍勢を30里先まで撤退させることに成功します。
遂に力尽きて李同が討ち死にした後に、魏の信陵君、楚の春申君の援軍が邯鄲に到着します。
援軍の到着に趙軍も最後の力を振り絞り、城内から呼応し、趙・魏・楚連合軍が秦を撃退することに成功します。
戦国四君の3人「平原君」「信陵君」「春申君」が一挙に勢揃いした邯鄲の戦いによって趙は滅亡を免れることができました。

独断で趙救援の軍を出した魏の信陵君は、自らの行為を魏への叛逆と見做し趙の客将となることを選んだ。

予想外の大敗北に秦の宰相:范雎(はんしょ)は、白起(はくき)に趙・魏・楚の討伐をするよう命じますが、
長平の戦いの事後処理以降、范雎に対して不信感を募らせていた白起は出陣を拒否してしまいます。
秦:昭襄王范雎は、白起に出陣するよう再三促しますが、拒否をし続けます。
激怒した昭襄王は剣を白起に送ります。これで自害するようにという最終通達でした。
白起は、秦のためとはいえ長平の戦いで40万の趙兵を生き埋めにしたことに自責の念も持っていたと言われています。
紀元前257年、列国を恐怖に陥れた白起は自害をします。

紀元前256年、秦は張唐(ちょうとう)が邯鄲攻略に失敗した王齕と合流して趙の寧新中を攻略した。
また秦:楊摎(ようきゅう)が韓の陽城・負黍を攻略し更に領土を拡大します。
危機感を覚えた西周(周の王家):文公は、諸侯を集めて秦を討伐をしようとしますが計画が発覚し秦:楊摎によって攻め立てられ降伏することになります。
事実上、周王朝が滅亡することになった事件でした。

紀元前251年 燕の宰相:栗腹(りつふく)は秦に連戦連敗をしている趙を攻略するチャンスであると燕王に進言し、趙に侵攻する。 
しかし趙は廉頗楽乗が燕軍を返り討ちし、逆に燕の国都:(けい)を包囲してしまう。
燕は5つの都市を趙に割譲することで和睦を請うことになった。

この年、秦の宰相:范雎は病と称して引退をする。
そして同年、秦を戦国屈指の強大国に育て上げた:昭襄王も没することになる。

一つの時代が終わり、戦国七雄の時代は新たな展開を迎えることになる。

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