中華史戦国七雄

中華・戦国七雄の時代⑦秦1強の時代(2)~長平の戦い~

紀元前263年からからの激しい侵攻を受けるようになる。
秦の白起の戦功は群を抜いており、陘城を攻め5万を斬首した。

さらに秦の宰相:范雎(はんしょ)は、韓を弱体化させる戦略として韓の野王という拠点を攻める策を決定する。
これによって国都:新鄭と韓の北部:上党が分断されることになってしまうのです。   

翌264年、秦は白起を総大将として韓の野王を侵攻し占領に成功します。
秦の戦略通りに上党が韓の国土から飛び地となってしまいました。

韓は、上党を割譲する事を条件に秦に対して和議を申し入れました。秦の戦略通りに事が運びました。

しかし上党では韓の馮亭(ふうてい)が秦への譲渡を良しとせずに、趙に上党を差し出し、趙と協力して秦に徹底抗戦する計略を考えます。

韓から上党を譲渡を提案されることになった趙では、国論が2つに割れました。
戦国四君の一人:平原君「労せずに上党を手に入れることが出来るので受け入れるべき」と賛成、

重臣の平陽君「秦の怒りを買い、趙を滅亡に導く」と反対します。

結果として平原君の意見が取り入れられ上党は趙の領土となりました。

この一件で 秦と趙の間に緊張が高まることになります。


紀元前260年秦の昭襄王王齕(おうこつ)を総大将として上党に軍を送り占領してしまいます。

上党の民は、趙の長平に逃げ込みました。
さらに王齕が趙の長平に攻め込んできたために趙:孝成王廉頗(れんぱ)を防衛軍として派兵します。


ここに戦国時代で一番有名な「長平の戦い」が勃発することになります。  

王齕軍の猛攻に廉頗軍は苦戦をします。秦の攻撃を防ぎきれないと考えた廉頗は防御に専念し長期戦に持ち込む作戦に切り替えました。
秦:王齕:廉頗の鉄壁の防衛陣の前に攻めあぐねてしまい戦局は膠着し長期戦の様相になってきました。

※ここまでが 長平の戦い ラウンド1としておきましょう

膠着した戦況を打開するために秦の宰相:范雎は、ある計略を考えます。

間者(スパイ)を趙に送り込み「秦軍は、趙軍が、老将:廉頗よりも天才として誉れ高い趙括(ちょうかつ)将軍に陣頭指揮を執られることを怖れている」という噂を流させたのです。

趙には秦が恐れる藺相如、廉頗、趙奢という3人の人物がいました。
趙括は、趙奢の息子で神童と呼ばれた将来を期待されていた人物でした。
しかし父:趙奢の息子への評価は、学問が出来るだけの机上の兵法家のため大将の器に非ずという低評価だったと言われています。
この時期には、趙奢は既に死去しており蘭相如は病に伏せていたため唯一、廉頗が趙の守護神ともいえる存在でした。
秦は、名将:廉頗が相手では戦局を崩すことが不可能と考え、扱いやすい趙括を将軍になるように画策したのでした
更に秦は密かに白起(はくき)を長平に出陣させ、趙軍には極秘で総大将を白起に任命し王齕を副将に移行させて万全の陣形を敷いていました。

一方、趙では老齢になった廉頗が消極的な作戦を展開しているものだと勘違いし、若い趙括に軍権を渡すべきであるという風潮も出始めていた。
孝成王も消極的な作戦の廉頗に不満を覚えていたため、総大将の座を廉頗から趙括に入れ替えるよう命じます。

長平の戦いのラウンド2の始まりです。

総大将となった趙括は、廉頗が敷いた鉄壁の防御陣形を変更し、秦と一大決戦を挑む攻撃の陣形に変えてしまいます。
これを好機と見た秦の白起は、趙軍を攻め込ませて伏兵により殲滅する作戦を決行します。
血気にはやる趙括は、白起の罠に陥り、偽装して敗走する秦軍を追いかけますが、戦陣が伸び切ったところで挟み撃ちにされて大敗を喫します。

その後、退路を断たれた趙軍40万は孤立して秦の兵糧攻めにより更に追い詰められます。
決死の突撃を仕掛けた趙括でしたが、秦軍の弓の一斉射撃によって戦死してしまいました。

総大将を討たれた趙の残兵は降伏をしますが、40万の捕虜の扱いに困った白起は、少年兵200数名を残して生き埋めの処刑にしてしまったと言われています。

この所業に白起の名は秦の恐怖と憎悪の対象となって轟くことになります。

秦の宰相:范雎も、白起の戦功の大きさが自分の地位を脅かすのではないかと危機感を抱くことになります。
さらに趙の国都:邯鄲に攻め込もうとする白起を戦陣から外し、王陵を総大将として邯鄲を攻め込ませました。
この人事に白起が不満を覚えることになります。

思わぬところで無敵の秦に不協和音が生まれつつありました・・・・。

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