中華史戦国七雄

中華・戦国七雄の時代⑥秦1強の時代(1)侮れない趙の存在

斉の勢力が弱まり、秦1強の時代になりつつありましたが、趙には軍事/外交面で優秀な人材が登場する。
紀元前280年に趙奢(ちょうしょ)が斉の麦丘を攻めて戦功を挙げ、
283年に廉頗(れんぱ)が将軍として秦の昔陽を攻めて戦功を挙げるなど天下にその名を馳せるようになる。

また紀元前283年に、秦と趙の間で、趙の宝「和氏の璧(へき)」を巡り、ある出来事がありました。
秦の昭襄王が「和氏の璧」を欲し、趙の恵文王に対して秦の15つの城と交換したいと提案をしてきたのであった。
趙の食客の藺相如(りんしょうじょ)が「和氏の璧」と「秦の15の城」との交換の交渉に赴くことになりました。

交渉の場では「和氏の璧」を手に取った秦の昭襄王が「15の城」との交換の話題をすることなく進んでいきました。
危険を感じた趙の藺相如はとっさに「和氏の璧」に傷があると言い、昭襄王から「和氏の璧」を取り返します。
そして無礼な秦王の態度を批判し「和氏の璧」を騙し取ろうとするならこの場で破壊と叫びました。
※その数日間、いろいろ駆け引きがあったのですが・・・・・。

最終的に、趙を想う藺相如の態度に感動した秦の昭襄王は、彼を盛大にもてなし、藺相如は無事に「和氏の璧」を趙に持ち帰ることに成功しました。

これが「完璧帰趙」(元のままの璧が趙に帰る)という故事で完璧の語源になったと言われています。

またあるとき、秦の昭襄王趙の恵文王が澠池(びんち)で友好の印として会合をすることになりました。

宴の席で秦の昭襄王は趙の恵文王に対して趙の楽器を演奏してくれないかと言った。
趙:恵文王は(しつという趙の琴のような楽器を演奏した。

それを見た趙の藺相如秦:昭襄王に対して、秦独自の楽器:缶(ほとぎ)を叩いて演奏していただけないかと要請した。
秦:昭襄王と秦の家臣たちは「無礼な!」と怒り出すが、趙の藺相如はひるまずに、短刀を取り出し
「我が趙王に楽器を演奏させておいて、それに返答しない方が無礼である!そして今の私と秦王との距離が誰よりも近いため、いつでも刺すことが可能だ!」と脅迫した。
秦の昭襄王は観念して缶(ほとぎ)を叩いて演奏した。

藺相如の凛とした対応によって、秦は澠池の会合で趙を臣下扱いする目論見が外れてしまい、軍事力ではなく外交力で趙は秦と対等にやりとりをしたため、趙侮りがたしの印象を与えた。
※ちなみに藺相如廉頗の間には「刎頸(ふんけい)の交わり」という有名なエピソードもあるがここでは省略する

一方、秦の常勝将軍:白起(はくき)が各地を暴れまわり、列国を恐怖に陥れていた。
紀元前278年 白起は、楚を攻めて、楚の国都:(てい)を陥落させてしまいます。  

楚は、白起の軍事力に脅威を感じ、秦から遠い陳(ちん)へ国都を遷都する慌てようであった。

紀元前276年 秦の白起が魏を攻めて、魏の国都:大梁(たいりょう)を包囲するに至った。
隣国の韓は魏への援軍を出したが、白起の反撃に合い韓軍4万の兵が壊滅させられてしまう。
魏と韓は、領土を割譲して秦に講和を請うことになった。

紀元前273年 魏は、趙と連合して韓の華陽を攻撃した。
韓は秦に救援を求めたが、秦の昭襄王は動こうとしなかった。
韓は陳筮(ちんぜい)を使者として秦の宰相:魏冄(ぎたん)に「秦が救援をしてくれないのであれば、魏・趙に与して秦に抗うことになる」と訴えました。
韓が魏・趙と組むことで秦の東への進出の弊害になると考えた秦の宰相:魏冄白起と胡昜(こしょう)に韓救済の軍を要請し、魏・趙を撃破させました。(華陽の戦い)
特に趙軍は白起の計略に陥って2万の兵が黄河に沈められるという大損害を受けてしまいます。
魏は南陽を秦に割譲することで講和したが、趙は秦と敵対を続ける。

秦は、魏・韓を従えて楚への侵攻を計画していた。
楚は戦国四君の一人:春信君(しゅんしんくん)を秦に使者として送り「強国の秦と楚が争っても相互の国力が低下するだけで、弱小国の韓・魏を利するだけである」と諭し秦からの攻撃を回避することに成功した。 

楚は和平の証として太子完を秦に人質とした。(その侍従として春信君も秦に滞在することになった)

紀元前269年 秦は胡昜を総大将として韓攻略の軍を起こし、趙の領内南部にある閼与(あつよ)に侵攻していた。

趙では、韓を救援するために閼与にいる秦を攻撃すべきか議論となった。
将軍:廉頗と楽乗(がくじょう)は「閼与への道は険しくて狭いので厳しい」と消極的であったが、趙奢は「道は狭いが勝機はある」として積極策を唱えたため、趙奢が将軍として閼与に進軍することになった。
趙奢は秦軍の油断を誘いつつ、山を占拠して有利な布陣を敷き、秦軍を一気に殲滅した(閼与の戦い)

この一件以来趙に藺相如、廉頗、趙奢が健在な限りは趙を攻めることができないと秦に言わしめることになった。

魏に仕えていた范雎(はんしょ)が魏の宰相:魏斉に無実の罪で鞭打たれ屈辱を受けて命からがら秦に亡命した。

後に范雎は秦の宰相となり、秦:昭襄王に遠交近攻の策を説くことになり、中国の天下は大きく動き出していくのである。

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