日本史関東戦国黎明期

関東戦国黎明期①~享徳の乱・時代背景

日本史で人気のある時代といえば「戦国/安土桃山時代」「幕末/明治維新」の時代でしょうか。
平安時代の「源平合戦」も人気のある部類かと思います。

最近は地味であった室町時代の「応仁の乱」が「主役不在の英雄列伝」ということで
現代人に共感し関連本が増えていることは歴ヲタとしては嬉しく思います。


「応仁の乱」は京都を舞台として主に西日本の守護大名を巻き込んだ大乱である。
ちょうど同時期に関東では「享徳の乱」という戦乱が巻き起こっていて、戦国時代はじまりのきっかけとなっていました。

そして、この時代は、魅力的な武将が登場する時代でもあるのです!


特に私はこの3人の武将に魅力を感じています。

「太田資長(太田道灌)」「長尾景春(長尾伊玄)」・・・そして「伊勢長氏(北条早雲)」

実は面白いのに知名度が低い「関東の戦国時代黎明期」にスポットを当ててみました。

1.時代背景

「享徳の乱」の説明するために、いくつかの前提知識が必要です。
複雑な事情が絡み合って、一筋縄では説明付かないため室町幕府成立まで遡ります。

鎌倉幕府と対立した後醍醐天皇に期待した全国の武士が、鎌倉幕府を倒しますが、公家中心の「建武の親政」に不満となり更なる争乱「南北朝の争い」が勃発してしまいます。
実権を握った足利尊氏により京都に室町幕府が開かれ形式上は、武家を統率することになります。

しかし、武士にとって関東の「鎌倉」は象徴的な場所であり、関東の武士をまとめるには「鎌倉」にも幕府の機関を設置する必要がありました。
それが「鎌倉府」であり、関東の武士は鎌倉を中心に統率されることになりました。
鎌倉府の主は、関東公方と呼ばれ、足利尊氏の次男:基次が就任しその子孫が世襲制をとることになりました。

京都の室町幕府の将軍職は、足利尊氏の嫡子:義詮の子孫が世襲制を取っていたため、
関東公方にとっては、足利尊氏の系統にも関わらず将軍職を継ぐことが出来ないことに多少なりとも不満があったと思われる。

3代将軍:義満や4代将軍:義持の時代に2回ほど衝突の危機があったが、6代将軍:義教の時代まではどうにか安定は保たれていた。

2.上杉4家の対立と「上杉禅秀の乱」

室町将軍を補佐するNo.2の要職:管領があるように、関東公方にもNo.2の関東管領が配置されていた。

関東管領の座は、上杉4家(犬懸、山内、扇谷、宅間)の間で、順番に交代制という取り決めになっていました。

4代関東公方:足利持氏の時代、上杉4家の中で最大勢力を誇る「犬懸上杉」が関東管領の座にあり、まだ若い関東公方:持氏を蔑ろにし権力をほしいままにします。

関東公方:持氏は「山内上杉」と組んで、関東管領の座を「犬懸上杉」から剥奪し「山内上杉」が就任

これに激怒した前関東管領「犬懸上杉禅秀」は反乱を起こし一時鎌倉を占拠する。(上杉禅秀の乱(1416年))

関東の異変に驚いた京都の室町将軍:足利義持は直ちに関東に軍を派遣し「上杉禅秀」を滅ぼしてしまいます。

上杉4家の中で最大勢力であった「犬懸上杉」が没落したことにより
「山内上杉」が上杉家の中で最大の勢力を振るうようになります。
これに対抗するように「扇谷上杉」も次第に力を伸ばし始めます。

この2つの「上杉」家の抗争も後の関東を混乱に巻き込む元凶となるのです。

3.永享の乱 

室町幕府4代将軍「義持」は息子に将軍職を譲ったが、5代将軍がすぐに病死してしまった。
そして次の将軍を決めずに前将軍「義持」も死去してしまったため、「義持」の兄弟の中から
家臣がくじ引きで将軍を決めることになりました。

それが暴君で有名な6代将軍「義教」です。

このくじ引きで将軍を決めたことに納得いかないのが、関東公方:足利持氏であった。

彼の言い分は、同じ足利一門の関東公方も将軍になる権利があるというのである。

関東公方:持氏はあからさまに「室町幕府」に反抗的な態度に出ます。

室町将軍「義教」も数々の挑発的な事件を起こし「室町幕府」と「関東公方」の間に緊張が頂点に達し
ついに、関東公方「持氏」が反乱を起こします(「永享の乱」(1435年))
戦らしい戦がほとんどないまま室町幕府軍の勝利に終わり、関東公方は4代で滅ぶことになりました。

そんな中、関東公方・足利持氏の遺子:春王丸と安王丸は家臣に守られ命からがら下野国に逃げ延びます。

二人を保護した下野国の豪族「結城氏朝」は永享の乱でさほど被害がなかった叛乱勢力をまとめ、
幕府軍に反旗を翻します(結城合戦(1440年)

1年の攻防の末「室町幕府」の勝利に終わります。
関東公方不在の関東は「関東管領」の上杉家が権力を握ることになります。

4.古河公方 と 堀越公方

しばらく上杉家による関東支配が続きますがやはり関東の武士を束ねるには、源氏の血筋「足利」の名が必要であることに気づきます。

室町幕府は「京」に預けられていた前関東公方:持氏の遺子「永寿丸」を関東に派遣し「関東公方」を再興させました。

永寿丸は元服をすると足利成氏と名乗り、関東公方に就任することになります。
数年後、関東公方:足利成氏は、自分の父と二人の兄を殺したのが室町幕府と上杉家であるという事実を知り、室町幕府と関東管領:上杉家と対立することになります。


足利成氏は、鎌倉を出て、下総国の古河城に立てこもり独自勢力を打ち立て「古河公方」と呼ばれることになります。

この「古河公方」はたちまち、北関東の豪族を従えて一大勢力を築くに至ります。

再び鎌倉の関東公方が不在となったため、室町幕府は6代将軍:足利義教の次男:足利政知を関東公方として鎌倉に派遣します。
しかし、鎌倉では上杉家の勢力が強くなっていたため「足利政知」が「鎌倉」に入れることは出来くなるという事態となります。

そこで、仕方なく伊豆の「堀越御所」に居を構えたので、足利政知は「堀越公方」と呼ばれることになります。

関東は室町幕府公認の堀越公方:足利政知がトップであったが、実質的権力者は関東管領・上杉家が握っており、
更に北関東には古河公方:足利成氏が独自支配圏を築くという複雑な状況になっていたのです。

力のある者が、権力を握る・・・・

関東にはこのように下剋上に近い考え方が芽生え始めていました。

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