中華史

八王の乱を分かり易く説明してみよう

「八王の乱」とは日本で人気の「三国志」の後日譚です。

上記の横山光輝のマンガ「三国志」でお馴染みの名セリフを語る
司馬懿の孫である司馬炎が魏・呉・蜀の三国を統一した晋の話となります。

登場人物がほぼ司馬一族であるため、
なるべく分かり易くまとめようというのが本記事の意図になります。

下図は「八王の乱」に登場する司馬一族の一部をまとめた家系図です・
黄色枠が「八王」の主役の皇族、紫枠が晋の皇帝となります。

後漢の時代は、各地の軍閥が勢力を持ち群雄割拠となり漢王朝の崩壊させるきっかけとなりました。
司馬炎はその轍を踏まないようにと各地に皇族を配置して支配する制度を取りました。
しかし皇族同士による醜い争いが起こり晋王朝を短期で崩壊させてしまう皮肉な結果となるのです

初代皇帝:司馬炎は、病が悪化したため、「司馬亮(汝南王)と楊駿に後事を託す」と遺詔を残しましたが、皇后:楊芷父:楊駿に権力を握らせるために「楊駿ただ一人に事後を託す」と書き換えてしまいます。
司馬炎が崩御して司馬衷が2代皇帝(恵帝)に即位すると楊一族が権力を握るようになります。


2代皇帝:司馬衷の皇后:賈南風前皇后:楊芷と仲が悪く楊一族を追い落とすために、司馬瑋(楚王)を味方に引き入れて楊一族を誅殺します。

楊一族が滅ぼされた後に、司馬亮(汝南王)が権勢を誇りました。
皇后:賈南風司馬亮(汝南王)をが叛逆を計画しているという噂を流し、司馬瑋(楚王)に誅殺するよう命じます。
その司馬瑋(楚王)は、独断で司馬亮(汝南王)を殺害したという罪を着せられて処刑されてしまいます。

皇后:賈南風の謀略により権力を握った賈一族でしたが、司馬倫(趙王)腹心の部下:孫秀に説得されて、賈一族を討伐することを決意します。

司馬倫(趙王)は司馬冏(斉王)と図らって賈一族を討伐することに成功します。

司馬倫(趙王)は権力を握ると帝位簒奪の野心を抱くようになります。それに危惧した司馬允(淮南王)司馬倫(趙王)を弾劾して軍を挙げましたが、司馬允(淮南王)軍は鎮圧されてしまいます。
そして遂に、司馬倫(趙王)は恵帝に帝位を譲るよう迫り帝位を簒奪してしまいました。
この事態に、司馬冏(斉王)が各地の王に檄を飛ばし司馬穎(成都王)・司馬顒(河間王)、司馬乂(長沙王)の3王が呼応します。
司馬倫(趙王)は敗北し処刑され恵帝が帝位に復帰することになりました。

司馬倫(趙王)を討ち取った司馬冏(斉王)が実権を握りますが、皇帝を蔑ろにするようになります。
長安にいた司馬顒(河間王)が洛陽に残っていた司馬乂(長沙王)司馬冏(斉王)を誅殺するよう要請を出します。

司馬乂(長沙王)司馬冏(斉王)を打ち破り洛陽の混乱を収めることに成功します。
※司馬顒(河間王)は実は司馬乂(長沙王)が司馬冏(斉王)に敗北して、その後に司馬穎(成都王)と司馬冏(斉王)を討ち取って実権を握ろうと目論んでいたのでした・・・・・・。

司馬乂(長沙王)は洛陽で政務に付くと皇帝を蔑ろにせず、政務の判断を司馬穎(成都王)に随時報告して取り仕切ったため、朝廷からも民衆からの評判が良かったといいます。
 計画が裏目に出てしまった司馬顒(河間王)司馬穎(成都王)と図らって司馬乂(長沙王)を失脚させようと画策します。
恵帝は、司馬乂(長沙王)に詔を出し、司馬顒(河間王)司馬穎(成都王)討伐を命じます。
官軍である司馬乂(長沙王)は連戦連勝でしたが、長期戦となったため洛陽が食糧難に陥る事態となってきました。
洛陽城内にいた司馬越(東海王)司馬乂(長沙王)に勝ち目はないと感じ司馬乂(長沙王)を捕縛して殺害してしまいます。

司馬穎(成都王)が乱の鎮圧後、皇太弟の座を射止めて権勢を振るいました。
司馬越(東海王)司馬穎(成都王)に敵対しますが、敗北し東海に帰還します。
その後、司馬穎(成都王)は、幽州の王浚が自分の意に添わないために討伐軍を起こします。
王浚司馬騰(司馬越(東海王の弟)に支援を求め司馬穎(成都王)を撃退することに成功します。
司馬穎(成都王)は部下の劉淵司馬騰・王浚討伐を命じますが、劉淵は、弱体化した晋を見限り漢(後の前趙)の建国を宣言し叛旗を翻します。

洛陽で失脚した司馬穎(成都王)は皇太弟から廃されて謹慎を命じられ、代わって司馬熾(後の懐帝)が皇太弟に立てられました。
劉淵(前趙)が洛陽に進軍する報を聞き司馬顒(河間王)恵帝を連れて長安に逃れます。
司馬越(東海王)は恵帝の奪還を大義に掲げて洛陽に入城しました。
司馬顒(河間王)司馬穎(成都王)共にその後が勢力回復ならずに殺害されてしまいました。

「八王の乱」の勝者となったのは、司馬越(東海王)でした。
2代皇帝:恵帝はその後、餅を喉に詰まらせて死去してしまいますが、これは、司馬熾(3代皇帝:懐帝)と司馬越(東海王)による暗殺ではないかとも言われています。
実権が司馬越(東海王)にあるため、3代皇帝:懐帝は次第に不満に思うように仲たがいをするようになります。
3代皇帝:懐帝司馬越(東海王)を討伐するように地方の将軍に詔を発すると病になっていた司馬越(東海王)は憤死してしまいます。

このように「八王の乱」は晋の皇族:司馬一族の権力欲にまみれた争いの末に、その後300年間の乱世となる「五胡十六国時代」を呼び寄せることになってしまったのでした。

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