琉球王国

琉球王国の歴史④薩摩の琉球侵攻

琉球と薩摩との関係

琉球王国と薩摩・島津家との関係は、3代王・尚真王島津10代当主・島津立久の時代から交易が盛んになったと言われています。
室町幕府管領:細川氏主導により琉球との貿易がされていた時期で畿内から九州までの警護を島津家が担っていた関係があったと思われます。

1516年、備中の商人(海賊とも言われている)三宅国秀が、琉球征服を計画して12艘の艦隊で出航します。
途中の航路で薩摩国・坊津に停泊していたところを、島津忠隆により殺害される事件が起こります。
琉球征服を試みた三宅国秀の計画を知り、室町将軍に許可を取ったうえで誅殺したということでした。
その数年後、備中の人の手によって薩摩・坊津が焼き討ちされるという事件が起こります。
実は、三宅国秀が室町幕府(細川家)の意向によって琉球征服が企画されていたものを琉球との権益を守るために島津が防いだ事件だったのではないかとの説もある謎の事件です。(三宅国秀事件)

この事件は後に、島津家が琉球に対して恩を売る口実に使われる材料の一つとなるのでした。
※当時の琉球王国にとっては、12艘の艦隊が王朝を揺るがすような脅威と思う訳がなく、有難迷惑な話だったのかもしれないですね。

秀吉から琉球に対する無理難題

琉球は7代・尚寧王の時代です。
1586年、日本の天下統一を目指す豊臣秀吉が九州平定を果たし、九州の覇者・島津氏を支配下に組み込みます。
1590年、日本統一を果たした豊臣秀吉は、島津義久に関東平定を祝う使節に琉球も同席するように要求します。
(島津義久がこの要求を琉球・尚寧王に送った書簡が2016年に見つかったというニュースがありました。)

※肖像画:Wikipediaより

また秀吉は、明征伐を計画し名護屋城築城の工夫や兵糧米を提出するよう全国の大名に求めます。
そして琉球に対しても兵糧などの提供を薩摩の島津氏を通じて求めました。
明の冊封体制に入っていた尚寧王は、明と日本との間に悩んだ挙句、秀吉の琉球出兵の口実を与えないように要求されている兵糧米の半分だけを送り、その他の要求は無視を決め込みました。
結局、残りの分は、秀吉に逆らえなかった島津家が肩代わりすることになります。
島津家にとっては、借金を貸したつもりだが、琉球にとっては、身勝手な隣人に半分だけでも分け与えたのであるから、有難迷惑な話だったに違いありません・・・。

1592年、秀吉は、明征伐の道案内をすることを拒否した李氏朝鮮を攻めることになります(朝鮮出兵)
天下統一間際に、秀吉から「好きな領地を与えるので述べてみよ!」と言われて「琉球」と答えた亀井茲矩という武将がいました。
奇をてらった回答が好きな秀吉は亀井茲矩に「琉球守」の称号を与えました。
朝鮮出兵の折、亀井茲矩は、秀吉から琉球征討の許可を得ます。
しかし琉球との貿易の権益を失うことを恐れた島津義久に反対され実現はされませんでした。

豊臣秀吉により様々な無理難題な要求に対し琉球王国では日本に対する不信感が芽生えます。

薩摩の琉球侵攻

1598年豊臣秀吉の死によって朝鮮出兵は終わりを告げ、1600年・東軍西軍と日本を二分した関ケ原の戦いで徳川家康の東軍が勝利し権力を握るようになります。
島津家は西軍に属したために敗北しますが、改易は免れ生き延びることができました。
しかし勢力や財力が衰え始めたため、島津家は琉球に復活の道を求めるようになっていきます。
 その影響が顕著に現れたのが、琉球との貿易利権の独占を狙った交渉です。
琉球に対して島津家の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求。主従関係のない島津に対して琉球は当然、拒否をします。
島津は過去の出来事(三宅国秀事件、秀吉からの兵糧米要求の肩代わり、亀井茲矩事件?など)で恩を売ったことを盾に交渉を強引に進めようとしたため、琉球と島津の友好関係にも亀裂が入ってきます。

1602年、伊達政宗の領内・仙台に琉球の船が漂着します。
伊達政宗は江戸に琉球の一行を送り、徳川家康の支援によって一行は、無事に琉球へ送還されることになりました。
お礼の使者が来るものと思っていた徳川家康は、琉球に対し謝恩使を遣すよう要求するようになります。
琉球王国は(特に強硬派の謝名利山が)、秀吉時代の例もあり、日本からの要求に不信感があったため無視を決め込んでいたようです。

しかし実は徳川家康は琉球を中継として明との貿易再開交渉の突破口として有効関係を求めていたようで、この思惑のスレ違いが琉球王国の不幸を招くことになってしまうのです。

1608年、島津家久は琉球に対して徳川家康に使者を送るよう諭すために僧侶・大慈寺龍雲を派遣しますが、
三司官(琉球の宰相):謝名利山に罵倒されて返ってきます。

このようなことが積み重なり、1609年、徳川家康の命令を取り付けた島津家久(忠恒)は、大将:樺山久高、副将:平田増宗として薩摩軍3000兵、軍船80艘を琉球に出兵することになります。
(※琉球との和解の道を模索していた島津義久と現・当主:家久(忠恒)は対立していたと言われる)

奄美大島、徳之島、沖永良部島と 次々に占領する薩摩軍は、遂に沖縄本島の今帰仁に上陸する。
薩摩軍は、海路と陸路の二手で首里城に迫ります。

薩摩軍の琉球侵攻ルートは 名瀬港湾センターのサイトのフェリーのルートとほぼ同じだったので笑いました(w)
名瀬港湾センターHP

ほぼ武力で圧勝した薩摩の軍勢でしたが、2つだけ琉球王府軍が戦果を挙げています。
〇那覇港では謝名利山(謝名親方)率いる部隊が、大砲で薩摩軍の上陸の阻止をする。
〇首里城では浦添親方の3人の息子:真大和、百千代、真かるが、薩摩軍の加治木衆の武将・梅北照存坊兼次などの指揮官クラスを討ち取る。

しかし日本の戦国で最強と言われる薩摩軍を相手に琉球王府軍は敵わず、薩摩軍の本島上陸からわずか8日で首里城が陥落します。

尚寧王は、薩摩に連行され、1610年に駿府城で徳川家康に謁見します。
徳川家康は、琉球の支配圏を島津忠恒に認め、ここに琉球王国は薩摩・島津家の支配下に置かれることが決定します。

琉球に戻った尚寧王は「琉球は古来島津氏の附庸国である」と書かれた起請文への署名を強要させられます。
三司官(宰相)たちも署名をしますが、ただ一人、謝名利山は頑に拒み続け、最終的には斬首されてしまいます。

琉球の民を守るために屈辱に耐えた尚寧王に代わり、
最期まで琉球人としての気骨を見せた謝名利山は現在でも沖縄では尊敬の対象になっています。

激動の第7代王・尚寧王の時代をドラマ化したNHK大河ドラマ「琉球の風」が1993年に放映されていました。
見たことないですが、琉球のドラマはなかなかないので貴重ですね。

その後の琉球王国

薩摩藩は参勤交代の際に、琉球衣装の一行を加えることで異国を征服している優越感があるため、琉球王国の文化には寛容でした。
それが幸いして琉球王国の伝統はそのまま明治まで残ることが出来たようです。

第二尚氏王朝は明治維新まで生き延びますが、最後の琉球国王・19代:尚泰王は首里城からの撤去させられ王の位を剥奪され、代わりに華族の称号を与えられ東京に移住することになり、琉球王国は消滅することになりました。

日本を沖縄からの視点で見ることで、また違った歴史が見えてくるものです。
※ちょっと最後はやっつけ仕事っぽくなってしまいましたが、とりあえず・・・・・・・・

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です