琉球王国

琉球王国の歴史②第一尚氏王朝

1.第一尚氏王朝の躍進

第一尚氏は尚思紹王が始祖として7代・63年間の王朝です。

三山を統一したのは尚巴志ですので、統一琉球王朝として考えると尚巴志が初代琉球王となります。

尚巴志の時代に首里城の拡張や那覇港の建設など琉球王国が発展をしました。
尚巴志には後継ぎがいなかったため、次男の尚忠が3代王となります。

4代王・尚思達の時代に、奄美大島にまで勢力を拡大します。
古来より日本では喜界島までが人間の住むエリアと考えており、喜界島より先は鬼が住む場所と考えられていました。
奄美群島は、鎌倉時代より千竈(かまち)氏が治めておりました。
奄美大島まで進出した琉球王国と千竈氏で度重なる争いがありました。
中でも勇猛果敢だったのが、尚思達王の弟・尚布里でした。
尚布里の活躍で、奄美大島を千竈氏との争いから勝ち取りました。

2.王位継承戦・志魯・布里の乱

5代王:尚金福が死去すると王子尚志魯と尚金福王の弟・尚布里が王位継承を争うことになります。(1453年:志魯・布里の乱)
王位継承を争いは苛烈を極め、首里城が焼け落ちるほどの激戦が繰り広げられた末に志魯と布里の双方が相討ちするという結末を迎えました。

王家がこのような有様であったため地方の按司たちが力を持ち始めます。
有力按司たちによって推挙された尚金福の弟・尚泰久が6代王に即位することになりました。

3.護佐丸・阿麻和利の乱

まず3人の有力按司を説明しておきます。

◇護佐丸(ごさまる
初代王・尚巴志が、北山国を攻略した時の功臣でした。
今帰仁城の城主であった祖父が北山王・帕尼芝に滅ぼされたために、北山王への復讐心があったものと思われます。
その後、尚巴志の信任を得て北山の要職に就き有力者として存在感を高めていました。

◇阿麻和利(あまわり)
悪政を敷いていた勝連城主を征伐して頭角を現し、積極的に中国大陸との貿易を行い勢力を高めていました。
6代王・尚泰久は娘:百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせて婚姻関係を結ぶほどの権威を持つことになります。

◇金丸(かなまる)
伊是名島の農民だったが、まだ王子の頃の尚泰久に才能を見出され頭角を現した。尚泰久が5代王に成れたのも金丸の力が大きかったと言われています。

6代王・尚泰久の時代に、有力按司同士の権力争いが頂点に達した事件が勃発します。
阿麻和利
は、護佐丸が軍備拡張していると尚泰久王に讒言します。(実は、これは阿麻和利の謀略であったと言われています)
その話を信じた王は護佐丸追討阿麻和利に命じます。
護佐丸は無実を潔白するために、反抗することなく自害します。

政敵を打ち取った阿麻和利は、追討軍を率いたまま王の居る首里城に進軍を開始します!

阿麻和利に嫁いでいた王の娘:百度踏揚の付き人の越来賢雄という人物がいました。鬼大城という異名を持つ豪傑で知られていました。
越来賢雄阿麻和利の謀反に気づき百度踏揚を背負って首里城に逃げてきました。
阿麻和利の謀反を知った尚泰久王越来賢雄に兵を与えて阿麻和利の鎮圧に成功しました。(1458年:護佐丸・阿麻和利の乱)

4.金丸のクーデター

7代の尚徳王は、交易に積極的で日本の室町幕府:足利義政にも使節を送ったと伝えられています。
また喜界島へ度重なる遠征を強行し、その無謀な政策に対して臣下から信頼を失うことになります。

尚徳王の死後、有力按司金丸によるクーデターが起こります。
そして金丸が琉球王に即位し、尚円王を名乗ることになります。

実は、「護佐丸・阿麻和利の乱」金丸有力按司の排除を狙った謀略だったのではないか?という説もあるほどです。
最終的に勝利を手にしたのが金丸であったことから、その説もありえるかもしれません。
農民出身から天下人になった豊臣秀吉を彷彿させる人物です。

沖縄県伊是名島出身の金丸(尚円王)は、伊是名村のふるさと納税の返礼品の泡盛にもなるほど地元では英雄です。

尚円王からの琉球王朝を、第二尚氏王朝と呼びます。

その③へつづく

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