朝鮮三国志⑤~唐帝国と三国の動乱
古代東アジアの日本を朝鮮三国志の時代から読み解くシリーズ第5弾です!
日本史では、飛鳥時代の頃になります。
前回のその④はこちら
618年、隋の将軍・李淵が隋に反乱を起こし滅ぼして唐を建国しました。
再び、中原には超大国が出現します。
隋が滅んだ遠因は、度重なる高句麗遠征に疲弊した民衆の不満が積み重なった結果でもあったため、唐は、その轍を踏まないような外交方針を重視したようです。
まず唐は、高句麗に対して旧隋軍と高句麗の捕虜を交換することで戦後処理を進めた。
朝鮮三国は、唐への朝貢をすることで冊封体制に組み込まれることになりますが、それぞれの思惑が交差する複雑な三つ巴の状況になります。
高句麗、唐の国境に強固な長城を築き侵攻に備えるようになり、唐からの不信感を買うことになる。
百済は唐の威光を背景に新羅への侵攻を強めるようになり、
百済からの圧力を受ける新羅は唐との対立路線が深まった高句麗への侵攻を考え始める
629年、新羅の新平王が高句麗への侵攻を開始する。新羅の将軍・金庾信の活躍で高句麗の城を陥落させる。高句麗の栄留王は、百済との同盟を考え始める。
642年、百済では、武王が崩御し、後継ぎ争いに勝利した義慈王が即位する。
同年に新羅への侵攻が本格化し、新羅領になっていた旧伽耶諸国を百済に併合させました。
この苦難の時代に新羅では、新平王が崩御し、聡明な女王として有名な善徳女王が即位しました。
※「善徳女王」も韓国歴史ドラマになっているようですね・・機会があれば見てみます。
善徳女王は、百済からの圧力に耐えかねて先代王から対立を深めていた高句麗に対し援軍を求めるようになる。
高句麗では外交の方針を巡り栄留王と淵蓋蘇文が対立を始める。
唐への臣従路線を進める栄留王を淵蓋蘇文が殺害し宝蔵王を傀儡として実権を握る政変が勃発します。
淵蓋蘇文も韓国歴史ドラマが存在してました!
王を殺害し実権を握ったのに唐の侵攻を防いだ英雄とされているのでしょうかね?
これも機会があれば見てみたい。
新羅の善徳女王は高句麗新王の祝辞の使者を送る口実に、高句麗に百済討伐の援軍の要請を願い出る。
高句麗の淵蓋蘇文は、新羅が先代王の時代に高句麗を攻めておきながら百済に攻められたら援軍を要請する新羅の主張に激怒し使者を抑留してしまう。
新羅の使者は王族の金春秋であったため、新羅王朝は騒然となり、救出のために精鋭の決死隊3000人を準備したほどです。
高句麗は、新羅との全面対決は得策ではないと考え、援軍拒否を伝えただけで金春秋を開放することにしました。
以後、高句麗は、新羅に奪われた領土の奪還を目的に新羅に攻め入ることになりました。
新羅は、高句麗と百済の両面から侵攻されることになり絶体絶命の窮地に陥ったため、唐に高句麗・百済からの侵攻を訴え救援を求めました。
百済の義慈王は、唐が新羅の援軍要請を許諾した情報を入手すると新羅への侵攻を一時的に中断をします。
新羅の善徳女王の外交が功を奏したのです。
唐は、高句麗で淵蓋蘇文が実権を握った政変を知り、討伐の機会を伺っていました。
643年に唐は高句麗に対し、政変の説明と新羅への侵攻を止めるように求めます。
二度に渡る唐からの命令を無視した高句麗に対し唐の太宗皇帝は遂に高句麗遠征を決定します(645年)
唐は、緒戦を制して、隋が攻略できなかった遼東城を攻城兵器と火攻めにより陥落させます。
駐蹕山の戦いでは、力技だけでは高句麗軍を征するのは困難と判断し、唐・太宗は、高句麗将軍・高延寿に対し「唐の遠征は、淵蓋蘇文が臣下の礼を欠いて主君・栄留王を謀殺したことを問うためのものであり、交渉が済めば占領した城は返却する予定である」と声明を出します。
これを聞いて高延寿は、唐と淵蓋蘇文が、交渉を始めたものと勘違いして防御を緩めてしまいます。
その隙をついて、唐のよる総攻撃が開始されて高句麗軍が敗退しました。
安市城では、高句麗軍が徹底抗戦し2か月間唐の猛攻を凌ぎます。
そして戦線が膠着したころに、遼東地方は冬の寒さが到来します。
唐の遠征軍にも厭戦ムードが漂い、遂に唐は高句麗を征服出来ずに撤兵することになりました。
しかし、遠征により唐の威勢を朝鮮三国に与えたインパクトは計り知れないものがありました。
唐は、新羅に対して女王が国のトップにいることが周囲から軽視される原因であるとして、唐の皇太子を新羅王とする政略結婚を求めるようになります。
そのことが新羅国内の内乱を誘うことにもなってしまいました。重臣:毗曇が、善徳女王の退位を求めて叛乱を起こすのです。(毗曇の乱)
新羅の内乱の最中、善徳女王は崩御します(647年)
女王が死亡した時に、隕石が王宮上空に落下したため不吉であると善徳女王陣営が騒然としたそうです。
その時新羅の将軍・金庾信が、凧に案山子を付けて火を付けて上空に飛ばし、再び火の玉が上空に上る様を演出しました。
この演出に士気が上がった善徳女王陣営が反乱軍を鎮圧することが出来ました。
新羅は、先々代王の新平王の姪である真徳女王が即位することになります。
真徳女王の時代にも、百済による新羅侵攻の勢いはとどまることはありませんでした。
新羅は金春秋を倭に遣わし新羅支援の要請を請いました。(647年)
647年ごろの倭国は、女帝・皇極天皇の時代に権勢を誇った蘇我入鹿を中大兄皇子が朝鮮三国の使者を招いた儀式の最中に暗殺したクーデター「乙巳の変」(645年)後に大化の改新が発布された時代である。
実はこの「乙巳の変」は、前述した新羅で起こった「毗曇の乱」がモデルとも言われています。
女帝時代に起こった悪の権力者を皇室の血筋の人物が成敗する!!
そのイメージを政治に利用したとも考えられそうですね。
結局、倭から新羅支援の良い返事を貰えなかった新羅の金春秋は、すぐさま、唐に渡り新羅の全面支援の陳情します。
唐は新羅支援を快諾します。
新羅は、唐の政治体制・制服など取り入れることを決定することで新羅が唐との親密度を高句麗・百済にアピールすることにもなったのです。