朝鮮三国志

朝鮮三国志③~百済と新羅の伽耶諸国争奪戦

古代東アジアでの日本の立場は世界史ではサラっと流されてしまい、まるで無かったことのようになっていますが、朝鮮半島との関りは非常に面白いストーリーになっていることを発見しました!
朝鮮三国志と日本との関りを学ぶシリーズ 第三弾です!
前回のその②はこちら

中華南北朝と朝鮮三国の関係

高句麗全盛の時代は、広開土王の息子:長寿王の代まで続きました。
その頃の華北の中華帝国は、北燕と北魏の覇権争いが熾烈を極め北魏が覇権を握ることになった。
北燕の昭成帝が高句麗に亡命をしたため、高句麗は北魏に狙われる立場になる。

北魏との対立を望まない高句麗は、昭成帝を暗殺し、北魏との和解の道を選ぶこととなります。

この頃の中華帝国は、天下二分する「南北朝時代」(439年~589年ごろ)に移行していた。
北朝は「北魏、東魏、西魏、北斉、北周」、南朝は「宋、南斉、梁、陳」と王朝が代替わりすることになります。

朝鮮の三国は、北朝と南朝それぞれに朝貢をして中原のパワーバランスを図りながら立ち振る舞う必要になりました。

高句麗の圧力に屈していた百済は、北魏に高句麗征討の支援を願い出る。
南朝・宋との対立もあり、北魏にとっては、高句麗との衝突は望ましくなく、百済の要請は聞き入られることはなかった。

高句麗も百済への侵攻を計画していた。 長寿王は高僧を間者として百済の蓋齧王に送り込み、王宮や祖廟などを豪華絢爛にすることで百済の威勢を示すべしと提案をする計略を仕掛ける。
 計略に嵌った百済は、浪費することになり、財政難に陥るようになってしまう。
475年、時機到来となり高句麗が3万の軍勢で百済に侵攻を開始、百済首都・漢城が陥落してしまう。
 百済の援軍として新羅も1万の軍勢を派遣するが間に合わず撤兵することになる。
百済は首都を熊津に遷都し再起を図ることになった。
これ以降、百済と新羅は政略結婚で同盟関係を強化することになるのである。

494年に高句麗が新羅を侵攻した際は、百済の援軍により高句麗を撃退させ、495年高句麗が百済を攻めた時は、新羅が援軍を送り、高句麗を撃退し、お互いの危機を乗り切ることができたのである。

高句麗が百済・新羅を攻めあぐねるようになると百済と新羅が内政・軍事の強化を行う余裕が出て来たたため
百済と新羅による朝鮮半島南端の伽耶諸国の分割合戦が始まるようになるのです。

百済と新羅の伽耶諸国争奪戦

伽耶諸国の一部の国は、倭国の支配圏に置かれていたため、百済は、それらの国の支配権を平和的外交で併合する作戦を取っています。
当時、儒教などの経典の知識に長けた学者が領土と交渉するためのカードであったようです。
倭の継体天皇の時代に百済との外交取引で儒学の経典の学者と伽耶諸国4か国と引き換えに支配圏の譲渡が決まったようです。
※日本列島から離れた土地の影響力を維持するより、友好国の百済に支配圏を譲り、大陸の文化を入手する方が国益と判断したのではないかと推測されます。

百済の伽耶諸国の進出に対して新羅は、伽耶諸国の強国である「加羅」と同盟関係を結びます。
対外的には伽耶諸国の保護でしたが、真意は、伽耶諸国の併合でした。

また新羅は、倭国の影響力が高い伽耶諸国のもう一つの強国「任那」に対しての侵攻を開始するようになります。

倭国は、任那への援軍として、近江毛野臣が率いる軍の派遣を決定します。

渡海しようとした矢先に、筑紫国の豪族・磐井が、倭に反乱を起こします(磐井の乱 527年)
継体天皇は、大伴金村と物部危鹿火に磐井追討の軍を命じて鎮圧に成功しますが、任那支援の軍の派兵は中止されました。
この磐井の乱は、新羅が磐井を扇動して倭に内乱を起こしたという説もあります。

新羅と同盟を結んだ加羅も、関係が悪化するようになり加羅は倭に支援を求めるようになります。
倭の近江毛野臣が仲裁のために朝鮮に渡ることになりますが、何ら解決策がなかったために、加羅は百済との結びつきを深めるようになります。

再三、任那に侵攻していた新羅は、532年になり、任那を降伏させ、支配下に組み込むことに成功します。
任那の王族は、新羅国内での相当の地位を約束されます。後に新羅の英傑の一人となる「金庾信」は任那の王族の子孫です。

百済と新羅の伽耶諸国を巡る対立が顕著になり出したのを好機とみた高句麗は百済へ侵攻を開始します。
百済は敗北し、首都を泗沘に遷都することになります。

高句麗と新羅との両面作戦は不利と見て、百済は新羅と再び和睦をします。

高句麗からの侵攻を新羅との同盟により撃破した百済は、今度は、高句麗へ侵攻を開始します。

百済・新羅連合 VS 高句麗 の戦いは、百済が勝利し、高句麗に奪われた漢城など漢江下流地域の失地回復を果たします。(550年)

一方新羅も漢江上流の勢力を拡大します。漢江上流地域は、かつて百済の領土であったため、百済は倭と組んで新羅を討とうと考え始めます。
553年、倭の欽明天皇の時代に、百済の使者が倭に仏教の伝来をお土産として 新羅討伐の援軍を要請に訪れます。
しかし新羅の動きが早く、倭の援軍が来る前に、百済の漢江下流地域を支配下に入れてしまいます。

倭では、仏教に傾倒した蘇我稲目により百済支援の軍派遣が決定し、倭の援軍を得た百済が今度は新羅に侵攻を開始します。

伽耶諸国の加羅も 百済の援軍として参加しました。
しかし新羅の反撃に合い、百済の聖王は敗死、王子:扶余昌は倭の軍勢に守られてどうにか死地を脱することになりました。

百済に大勝した、新羅は、加羅に侵攻し併合することに成功しました。

伽耶諸国はすべて百済・新羅に併合される形となり、本当の意味での三国鼎立の時代を迎えることになるのです。

その頃、中華帝国では、南北朝時代が終焉を迎え、中原を統一したが成立します。

中原に超大国が出現したことにより 朝鮮三国時代 はまた新たな時代に突入していくのです。

その④につづく

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