朝鮮三国志

朝鮮三国志②~高句麗全盛期・広開土王の登場

古代東アジアの未曾有の大乱「白村江の戦い」に日本がどのように巻き込まれたのか朝鮮半島の三国時代を探る歴史ネタの第2弾です!!

その①はこちら

古代日本は大陸の中華思想では、東の端の蛮族とみなされ蔑視的な名称で「倭国」と呼ばれていました。
しかし、倭国は、朝鮮半島南部の小国家群「伽耶諸国」の数か国に影響力を持つ強力国家でもありました。

朝鮮半島には任那(みまな)日本府と呼ばれる日本の衛星国家があるような説も一時期ありましたが、最近では、「伽耶諸国」の任那地域に日本が外交/軍事に影響力を持つ機関が存在していたという説が有力になっているそうです。

そのような四世紀の朝鮮半島は、朝鮮三国時代の主役となる三か国「高句麗・百済・新羅」が出揃った時代でした。

一番強国の高句麗は、過去に再三、百済への遠征を行いますが、そのたびに失敗し、逆に百済からの侵攻をたびたび受けるようになります。
更には華北の帝国「後燕」との争いにも敗れたため、朝鮮半島での影響力に衰えが生じます。
劣勢になった「高句麗」「新羅」と同盟を結び、百済に対抗をします。

そんな中に高句麗に新しい王が誕生しました「広開土王」です。

広開土王は、富国強兵を実施し、新羅との関係も更に強化して百済への侵攻を再開します。
その結果、次々に百済の居城を落とし破竹の進撃を続けました。

また北方民族の「契丹」が高句麗を脅かし始めたため、北方への遠征も行いこちらも撃退に成功します。

百済の威勢が落ちたことを見逃さず、広開土王は百済総攻撃の軍を発します。
398年、百済の首都・漢城まで高句麗軍が迫ったため、百済王・阿莘王は降伏を申し出ました。

百済は、高句麗に降伏をしましたが、裏では倭国に人質として王子を送り同盟関係の強化をします。

399年、倭は、百済の秘密裡の外交に応えるように、高句麗の同盟国である新羅に攻め込みました。
驚いた新羅は、高句麗に援軍要請の陳情をします。

高句麗の広開土王は、後方の憂いを断つために宿敵の「後燕」と和睦をすることに成功します。
その背景として「後燕」も華北で「北魏」との覇権争いで朝鮮半島への干渉をする余裕がないためお互いに利害関係が一致したためと言われています。

400年、広開土王は5万の兵を率いて新羅侵攻をする倭国討伐の軍を挙げます。
新羅の領地を次々と落としていた倭国でしたが、高句麗の援軍によって撃退されてしまいます。

しかし新羅は、倭国の勢力の追い払う代わりに高句麗による支配下に置かれてしまう状況になってしまいました。
その結果、新羅王・奈忽王が謎の死を遂げて実聖王が即位することになりました。

高句麗の支配下に置かれた新羅でしたが、秘密離に倭国に人質として王子を送り、同盟関係を結ぼうとします。
倭国と百済の友好関係に楔を打つ目的と高句麗に対抗するための戦略があったのかもしれません。
 倭国も、人質の王子を受け取り新羅と友好関係を結ぶことになりました。


広開土王は、「北魏」により影響力が落ちた「後燕」への遠征を実行し、成功を収めます。

広開土王の時代に高句麗の勢力図は大幅に拡大することになりました。

409年、「後燕」内で内紛が起こり「北燕」という国家になりました。
広開土王は「北燕」に祝福の使者を送り友好関係を締結することにしました。

高句麗絶頂期を迎えた412年、広開土王は崩御し、子の長寿王が高句麗王に即位します。

長寿王は 倭国との争いを好まず、友好関係を結ぶ外交路線を変更します。

413年には、高句麗が倭王・讃の使者を連れ立って華南の王朝「晋」に朝貢に訪れたという記録があるそうです。

このように、偉大な王・広開土王の出現により朝鮮三国志は、高句麗一極の時代を迎えました。

しかし、百済新羅の2か国は、倭国と秘密裏に友好関係を結びつつ、勢力を挽回する機会を伺っていたのです。

その③に続く

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です