朝鮮三国志

朝鮮三国志①~三国時代までの流れ

私は三つ巴の争いが大好きです!  

三つ巴の時代で有名なものといえば、古代中国「魏・呉・蜀」の三国時代・・・

日本では源平合戦でも 平家VS源頼朝VS木曽義仲の三つ巴もありました。
そして戦国時代「武田・上杉・北条」の関東三国志・・・・そして「大友・島津・竜造寺」の九州三国志・・・・

宇宙歴0087年の、「ティターンズ・エゥーゴ・アクシズ」のグリプス戦役・・・

今回取り上げようと思っているのは、古代朝鮮半島「高句麗・百済・新羅」の朝鮮三国志です

当時の東アジアは大陸中原を超大国・唐が支配しており、我が日本は倭と呼ばれていた時代です。
倭国は、朝鮮半島にも少なからず影響を持っており、この朝鮮三国志のクライマックスの時代には、日本は
東アジアを揺るがす「白村江の戦い」(660年)で古代最大規模の争いに巻き込まれることになるのです。

我が日本が、この朝鮮三国志にどのように関わっているのか?
以前より興味がありながら、それほど調べていなかったため、クリプト歴ヲタ同好会の一員になったことを機に調べることにしました。

三国の建国

朝鮮半島は、前漢の武帝の時代に「衛氏朝鮮」が漢と争い敗れ「朝鮮四郡」として漢の統治下に置かれました。
その後、漢の影響力が薄れてきた頃、「扶余」という王朝が朝鮮半島の北に権力を持っておりました。
扶余王家の養子の朱蒙が、王家の争いから逃れ独立してB.C37年に建国されたのが、「高句麗」です。

韓流大河ドラマ「朱蒙」とは、高句麗の建国者のドラマである。

高句麗建国時の朝鮮半島は下図の通りです。
朝鮮半島の南側は、馬韓諸国、振韓諸国、弁韓諸国の小国家群が存在していた模様です。

その後、高句麗は、後漢と争うようになりますが劣勢になり臣従を誓い朝貢することになります。
三国時代にはに臣従し、魏に反乱を起こした「公孫淵」とも争いました。

から帝位を継いだ司馬一族により建国された「晋」により「蜀・呉」が征服されて三国時代が終焉をしました。

その「晋」の時代に、百済が、朝貢をしたという記録があるようです。
百済の王家は名字を「扶余」と名乗っていることから「扶余」王家の系統の一族ではないかと言われています。
百済建国当時は、半島の北、扶余の勢力圏だと言われています。

「晋」の時代には、北方民族の鮮卑、匈奴、羌、氐、羯などの「五胡」の勢力が台頭します。
華北では、五つの北方異民族の争乱する「五胡十六国時代」となり、晋は華南で辛うじて勢力を維持することになります。

鮮卑が華北を制圧し「前燕」を建国します。
「高句麗」「前燕」から侵攻されるようになりました。
そのどさくさに紛れて「百済」が朝鮮半島の南西・漢城(現・ソウル)に建国(340年代?)をすることになります。

五胡のが華北を制し「前秦」を建国すると「高句麗」と友好関係を締結しました。
「前燕」からの侵攻から解放された「高句麗」「百済」へ侵攻を始めるようになります。

二度に渡る遠征は、高句麗王:故国原王が流れ矢に当たり戦死して撤退することになりました。
次の高句麗王となった小獣林王は、復讐に燃えて百済に侵攻しますが、これも失敗することになります。

この頃から、百済と倭は親交を深めるようになりました。

その後華北は、再び鮮卑「後燕」を建国し「高句麗」に侵攻を始めるようになります。
そのような情勢下の377年に「新羅」が建国をされたと言われています。

新羅「弁韓諸国」の一つ「斯蘆」が発展した国家ではないかと言われています。

「後燕」「百済」に対抗するために「高句麗」「新羅」と同盟を結ぶことになります。

4世紀になり、これで「高句麗」「百済」「新羅」の三国が揃いました。

わかりやすく三国志に例えると高句麗=魏、百済=呉、新羅=蜀 という国力差になるでしょうか。

朝鮮三国志の幕開けです!!

その②へ続く

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