中華史戦国七雄

中華・戦国七雄の時代③ 縦横家の活躍(2)

紀元前318年 魏の公孫衍率いる六国合従連合が 秦の函谷関に攻め込みます。
秦は、背後を攻められないようにオルドス地方(モンゴル地方)の国家:義渠に贈り物を贈呈し機嫌を取っておいた。
しかし事前に魏の公孫衍は

「秦は中国に事のないときには貴国を思うまま焼き払い、中国に事があると贈り物をたずさえて平身低頭してきます」と義渠王に吹き込んでいた。
義渠王は、秦が国難に陥っていることに気づき、秦を攻撃することを命じた。

前面に合従連合軍、後面に義渠軍からの攻撃に晒された秦であったが、

函谷関に迫る合従連合軍を王弟・樗里疾が見事に迎撃して、戦局は秦に有利に進み、韓の太子:奐と趙の公子:渇の軍を撃破し、韓の申差を捕虜にするなどの戦功を挙げた。
合従連合軍は敗走した。
後方の義渠軍に対しては秦:李白将軍の活躍で撃退することに成功する。


その後、秦は趙と韓を攻め反撃に出ます。
斉は自国の利益を優先した結果合従同盟を破棄し魏と趙さらに燕を攻めて領土拡大をしていった。

合従同盟を崩壊させられた蘇秦は、燕:噲王への恩義に報いるために斉:湣王を説得するために斉に赴いた。
巧みな弁舌と情勢分析を論じたことによって燕が奪われた土地を斉から返還させることに成功する。

張儀は合従の崩壊を受けて、再び魏と韓に対して「連衡」を働きかける。

その頃、陳軫は楚の使者として韓に入り、楚は韓の味方をするとと伝えました。
韓は楚の協力を得たため、秦との対決姿勢を強めていきます。

一方、秦では、韓への対応は意見が分かれていました。
張儀は、魏・楚と組んで韓を攻める策を進言。

司馬錯は、いつでも韓は攻めれるため先に蜀を攻める策を進言。
紀元前316年 司馬錯の策は採用され、秦が蜀を制圧することに成功します。

紀元前315年 秦は韓、趙、義渠に攻め入り領土を勝ち取ります。 

身の危険を感じた魏は秦との同盟を破棄し韓と連合し、秦に対抗姿勢を取ります。

公孫衍主導の魏・韓連合に対し、秦は王弟:樗里疾が迎え討ち、秦の勝利に終わる。

公孫衍は敗走し、魏・韓は再び秦の連衡に応じるようになった。

その頃、では暗愚な燕王:噲が政治を宰相の子之に任せきりであった。
さらには、王の位を子之に禅譲(王位を譲ること)してしまい、これにより燕国内は騒乱状態となった。

この混乱に乗じて、斉が燕を制圧してしまった。
一時的に燕が斉の従属国となるのであった。

実はこの事件は、斉の湣王が蘇秦の弟:蘇代を縦横家として燕に送り込み仕組んだ策略だったとも言われている。

紀元前313年、秦は樗里疾に趙を攻撃させ 次は、斉・燕を標的とした。

斉は楚と同盟して秦に対抗する動きをすることになる。

張儀は、楚が斉と断交するならば商・於の地を割愛させようと密約を結ぶ。
しかしこれは、張儀の陰謀であった。
※過去に張儀は楚で無実の罪で楚に復讐を誓っていたのであった。

楚が斉との対立姿勢をしたことを見届けると、秦は、楚に対する領土割譲の約束を反故にする・
怒った楚:懐王は秦を攻撃(藍田の戦い)
秦は魏章総大将とし、樗里疾・甘茂が迎撃に成功し楚は敗北した。

更に魏と韓が、楚の隙を突いて南下して本国を攻撃したため 楚は秦に領地の割譲するという条件で和睦を結び事態を収拾した。

その後、秦から楚に土地返還の話が上がったが楚王は張儀を恨み「土地の返還より張儀の命を奪うこと」を望みます。
そこで張儀は楚王の寵姫に「秦は張儀の命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりである」と吹き込みます。
王の寵愛を失うことを恐れた寵姫が張儀の命の奪わないように嘆願したため楚王の怒りを鎮めることに成功し、難を逃れることができました。


このように張儀は韓・魏・趙・楚を巧みにそそのかして、合従連合の連携を崩して各個に秦と臣従関係を結ぶ連衡に導くことに成功したのですが、紀元前311年、秦では恵文公が死に、張儀とは不仲であった太子が新しい秦王:武王として即位したことで状況が一転します。
張儀は秦王からの誅殺を恐れ魏に逃亡し、その後歴史の表舞台から消えてしまうのでありました。

このようにこの時代は、縦横家たちの活躍によって「合従・連衡」の外交関係が入り乱れる情勢が繰り広げられたのでした。

その中で、西の秦、東の斉が2大強国としてますます存在感を増し始めるのであった。

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