関東戦国黎明期②~享徳の乱:3人の英雄の登場
知名度の低い関東の戦国黎明期を紹介するシリーズの第二弾です!
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1.享徳の乱の勃発
関東公方に就任した:足利成氏は、自分の父や兄を誅殺した張本人が関東管領の山内上杉家であることを知り、山内上杉氏を政治から遠ざけ結城氏、里見氏、小田氏などを重用するようになります。
また足利成氏は、山内上杉氏の家宰職である長尾家の発祥の土地を長尾景仲から没収することを命じます。
これに反発した長尾景仲が、扇谷上杉家の家宰:太田資清と連合してが、足利成氏を攻める計画を立てました。
計画を察知した足利成氏は江ノ島に一時退去し、討手の長尾、太田軍を撃退します。 (江ノ島合戦(1450年 宝徳2年)
詳細な事情を知らない関東管領:山内上杉憲忠によって、この事件は仲裁されることになるが、後に事情を知り、関東公方と関東管領両派の対立が顕著になります。
そして享徳3年(1455年)、関東公方:足利成氏によって関東管領:山内上杉憲忠が暗殺されます。
里見氏、武田氏等の足利成氏方の武将が山内上杉氏の実力者:長尾実景・憲景父子も殺害する事件が起こります。
長尾景仲は殺害された山内上杉憲忠の弟:房顕を関東管領に就任させ、従弟の越後守護上杉房定の軍と合流して足利成氏と決戦を挑むことになりました。
ここに28年間、関東を戦乱に巻き込む「享徳の乱」が勃発することになったのです。
康正元年(1456年)武蔵分倍河原の戦いで、関東管領方は惨敗を喫し扇谷上杉家当主・上杉顕房が戦死するなど壊滅的被害を被ります。
関東の危機を聞きつけ、室町幕府は成氏討伐を今川範忠に命じました。
足利成氏が北関東の戦線に手間取っている間に今川軍が鎌倉を占領したことにより、足利成氏は古河城に本拠地を構え「古河公方」と呼ばれるようになりました。
房総半島では、千葉氏に内紛を起こり、分家の千葉康胤が宗家を滅ぼし千葉氏の家督を継ぎ成氏に味方することになります。
また山内上杉氏の所領であった安房・上総国は、足利成氏派の武田信長、里見義実により侵攻され大部分が占領下に置かれます。
このように圧倒的に古河公方が圧倒的な有利な状況で関東は利根川を境にして勢力が二分されることになりました。
2.太田道灌の登場
「分倍原の合戦」康正元年(1456年)に敗れた上杉家のうち、最も損害が多かったのが扇谷上杉家であった。
当主・顕房が戦死し、その嫡子:政実はまだ4歳であったため政治の判断など出来る年齢ではなく、家宰職の太田家が扇谷上杉家を支えていくことになる。
家宰職の太田家は、先代の太田道真より家督を譲られた太田資長(以後は太田道灌で統一します)の代となり、弱体化しつつある扇谷上杉家を建て直し鮮烈デビューを果たします。
太田道灌は、兵力動員を開始するために、当時としては珍しい給与を払って従軍させる「足軽」と呼ばれる傭兵部隊を活用する方法を考え出します。通常の自国での動員だけでは、古河公方:成氏方の兵力に劣っているを補う新しい発想でした。
また太田道灌は、古河公方の勢力に対抗するために江戸城、岩槻城、川越城を築城し防衛能力を高めました。
太田道灌によって古河公方に圧されていた関東管領方は徐々に体制を整えることができるようになりました。
長禄2年(1458年)、将軍義政は、足利政知を新関東公方として鎌倉に派遣します。
関東管領:山内上杉氏と扇谷上杉氏が、新関東公方を受け入れるかの議論となり、鎌倉入りが出来ない状況となっていた。
足利政知は仕方なく、伊豆の堀越に居を構え「堀越公方」と呼ばれるようになります。
応仁元年(1468年)、幕府が計画していた関東への援軍は、京都で勃発した「応仁の乱」の影響で中止となり古河公方の反攻が開始されることとなります。
関東管領:上杉房顕は、武蔵国・五十子に城砦を築いたため、両軍は五十子で睨み合いと小競り合いを繰り返し、関東各地で一進一退の戦いを繰り広げます。
文明3年(1471年)、古河公方:足利成氏は小山氏・結城氏の軍勢を率いて、伊豆の堀越公方を攻めますが、敗れてしまいます。
小山氏や小田氏が幕府に帰順する姿勢を示すなど、古河公方の勢いにも陰りが見えてくるようになってきますが、
享徳の乱勃発から20年経った文明8年(1476年)の新たな事件が起こるまで、五十子の陣での両軍の睨み合いが続きます。
4.長尾景春の登場
文明5年(1473年)山内上杉家の家宰・長尾景信が没します。
山内上杉家の家宰職は、3つの長尾家(惣社、白井、足利)の間で、武蔵守護職と家宰職などの要職を交代制で継承して3つの家柄の勢力関係を均等にしてきた暗黙のルールがありました。
しかし、享徳の乱の影響で人事が滞り、白井長尾家の長尾景仲~長尾景信が2代続けて家宰職を継いでいました。
そこで、関東管領:山内上杉顕家は、武蔵国守護職である惣社長尾忠信を家宰職も兼任するように命じてしまいます。
白井長尾家の長尾景春は「武蔵国守護職」も「家宰職」も継げない状況となってしまうのでした。
この要職に就けない状況は、白井長尾家に仕えている配下の豪族たちにとっても利権がなくなってしまうため一大事な出来事であり、
長尾景春は、配下の豪族を守るために、この人事には反対の姿勢を取ることになります。
この人事の問題を指摘したのは、他でもなく扇谷上杉家の太田道灌でした。
「家宰」「武蔵国守護」のどちらも継承できなかった長尾景春が不満を持つことは明らかであった為、「武蔵国守護」職を惣社長尾忠信から返上させて、長尾景春に継承させるべきであると提案します。
太田道灌は11歳年下の長尾景春の知略・武略を早くから評価しており、その才能を両上杉家の為に発揮する日が来ることを期待していたのです。
しかし、山内上杉顕家は、太田道灌のの提案を却下してしまいます。
太田道灌の主君である扇谷上杉定正も山内上杉家の家宰が知略・武略の優れた長尾景春が継いで、山内上杉家の勢力が増大するよりも、山内上杉家内部で亀裂が生じた方が有利になると考えてこのやりとりを黙認していた。
太田道灌は、関東管領:山内上杉顕家と長尾景春の調停に奔走しますが、両者の溝はますます広がるばかりでした。
5.太田道灌と北条早雲の一期一会
文明8年(1479年)、駿河国守護の今川義忠が死去し、家督を巡る争いが勃発します。
今川家嫡子・龍王丸(後の今川氏親(今川義元の父))はまだ6歳であり、幼君ではこの戦乱の世に家督を継ぐに相応しくないと考える一派が今川義忠の従兄弟・小鹿範満を擁立したのであった。
龍王丸派と小鹿範満派による家督争いのドサクサに駿河国を支配下に治めようと目論んだのが堀越公方;足利政知でした。
堀越公方は、扇谷上杉家を介して、調停役を今川氏に派遣します。
その調停役になったのが太田道灌で兵300騎を率いて駿河に向かいました。
足利家からの干渉は何としても避けたいと今川家内で敵対する両派は共通する考えを持っていたようです。
そういった空気を察した今川義忠の正室の兄:伊勢長氏(後の北条早雲)が駿河に到着した太田道灌の陣所に訪れます。
この会見で北条早雲は、
「駿河における騒乱は、幕府に異心あってのものでなく今川家中の私闘であるため、和解させるまで時間を頂きたい。もし収まらない場合は、幕府に鎮圧を要請致す。」
と願い出ます。
太田道灌と北条早雲は、この一期一会の会見で、お互いの資質を認め合ったと言われています。
※この二人の会見は後世の創作とも言われていますが事実だとしたら浪漫があります。
太田道灌は、北条早雲の要請に従い、軍勢を撤退することになりました。
北条早雲は、その後、見事に今川家の家督問題を解決させて、今川家中で台頭することになりました。
関東から太田道灌が留守になっていた時期に、牙を剥いて好機を狙っていた人物がいました。
長尾景春です。