朝鮮三国志

後朝鮮三国志②~ 完結編

前回 後朝鮮三国志①はこちら

後高句麗優勢の時代

後高句麗、新羅、後百済の三国が鼎立してから、最初に優位になったのが弓裔(クンイエ)率いる後高句麗でした。

904年、弓裔は国号を後高句麗から摩震(摩訶震旦の略)に改めて国家体制の強化を備えました。

南下して新羅の勢力圏を次々に吸収し、部下の王建(ワンゴン)に水軍を与えて、後百済の勢力圏まで遠征し牽制をしました。

911年には国号を摩震泰封に改めます。

既に、高句麗の再興を掲げて旗揚げしたことなどを忘れたかのように

弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し、長男を青光菩薩、次男を神光菩薩と呼ばせるようになります。

そして仏教の神秘性を利用して権威を高め暴君と化してしまうのでした。

次第に有力家臣達からの支持を失い始め、918年に有力武将のに王建によるクーデターが勃発し、弓裔は王位を奪われ逃亡中に殺されてしまいます。

韓国大河ドラマ「太祖・王建」より

王建は、後高句麗の後継者となり国号を高麗と改めることになります。

後百済の台頭

一方、後百済の甄萱は、920年に新羅の西部にある大耶城を攻略して勢力を拡大し始めます。
そして高麗の南端にその勢力を進めて、高麗とも戦端を開くようになります。

後百済からの圧力で劣勢に陥った新羅景明王は、高麗に助けを求めました。

高麗王・王建は、新羅の要請を受諾して 高麗と新羅が同盟を締結することになります。

後百済は、それに対抗するため、日本に援助を求める使者を送ったと伝えられています。

日本の朝廷は、後百済からの援助要請を無視します。(時の天皇は、醍醐天皇でした)

926年10月、後百済は、新羅への攻勢を強めます。

新羅の首都:金城への侵攻が開始されます。
新羅の景哀王は、宮中での宴会中に後百済に侵攻を許すという失態を演じてしまいました。
この報に、高麗の王建が援軍に向かいますが、後百済軍の甄萱(キョンフォン)に待ち伏せに会い大敗を喫してしまいます。

追い詰められた新羅の景哀王が自害してしまいます。

この時、後百済王・甄萱(キョンフォン)は新羅の王妃を凌辱するなど数々の乱行を行い、新羅国民から恨みを買います。

甄萱により新羅は敬順王が王位に就くことになります。

新羅王は後百済の傀儡となってしまったため新羅国内は乱れて中央政府として機能がしなくなってしまいます。

929年、高麗の王建は、後百済に対して反撃に出ます。

高麗軍は各地で後百済軍に勝利し甄萱の威勢に陰りが見えてくるようになります。

この年に再び、後百済は日本に援助要請の使者を送りますが、日本は再度無視・・・・・。
※新羅の王妃を凌辱するような蛮行をする王からの要請を日本が応じるわけもなかったのでしょうかw

進退窮まった甄萱は、見栄も外聞も捨てて、高麗に休戦を申し込みますが王建は拒否。

934年にも大規模な戦闘が起こり、高麗が後百済に大勝し、高麗の勢いが止まらない状態となっていたのでした。

そして 高麗による三国統一

935年、時代が動きます。

新羅の敬順王は、国内の支配地域が縮小していく様に絶望し、高麗に新羅の国土を譲渡することを決めて降伏をします。

後百済では、甄萱が、後継者として四男の金剛を指名したため、お家騒動が起こります。

長男の神剣が次男の良剣と三男の龍剣と共謀して父の甄萱を幽閉し、四男の金剛を殺害してしまったのです。


甄萱は、幽閉地から脱出を図り、高麗の王建を頼ります。

そして息子の神剣達を討伐することを王建に願い出ます。

王建は甄萱を先鋒に後百済の討伐軍を指揮します。

後百済の親子対決を利用した高麗は、後百済を降伏させることに成功し936年朝鮮統一を果たします。

後朝鮮三国時代は幕を閉じ、高麗の時代となるのです。

韓国大河ドラマ「太祖・王建」が後朝鮮三国時代となりますので、興味を持った方は視聴してみてください。

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