朝鮮三国志④~隋帝国と朝鮮三国
古代東アジアと日本の関係を解く、朝鮮三国志シリーズ!
そろそろ日本史のお勉強で馴染みの人物も出てきているのではないでしょうか?
前回のその③はこちら
中華では、北朝の「北周」の宰相:楊堅が、皇帝の座を禅譲して「隋」を建国。
589年に南朝の「陳」を滅ぼし、中華を統一した超大国・隋が誕生します。
※日本史で「遣隋使」って習いましたよね?その時代です。
超大国の出現に三国はこれまでの外交戦略を一新する必要が出てきました。
高句麗は、隋と国境を接しているため、いち早く朝貢しますが、警戒を深める行動に出ます。
百済は、すぐに隋に朝貢をし高句麗を攻める際は道案内をすると隋に臣従を誓いました。
新羅は、二国に遅れること数年後に朝貢に訪問することになりました。
こうして三国は、隋の冊封体制に組み込まれることになりました。
隋を警戒する高句麗は、首都を防御力のある平壌に遷都します。
598年、全面戦争を覚悟して高句麗は国境を越えて隋を挑発する行動に出ます。
隋も高句麗遠征軍を派遣しました。
地の利を活かした善戦する高句麗に天の恵みの長雨と疫病が隋軍を襲います。
その結果、隋は撤退をすることになりました。(第一次高句麗遠征)
604年、隋は二代皇帝・煬帝が即位します。
日本史で有名な厩戸皇子(聖徳太子)が書いた国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」を読んで冊封体制に組み込まれない意思表示だと激怒したあの皇帝です。
煬帝は、先代が失敗した高句麗遠征の機会を伺っていました。
高句麗の圧力に苦慮していた新羅は、隋に高句麗討伐の陳情します。
また隋は、百済に対し高句麗の偵察と遠征の準備を進めるよう指示しました。
しかし百済は、本気で高句麗を攻める気はなく、密かに新羅侵攻の機会を伺っていたのでした。
そして、隋が高句麗遠征を決定した611年に、百済は新羅を攻め始めます。
そして612年、煬帝率いる隋の高句麗遠征が開始されます。
遼河を対峙しての緒戦は、隋軍が高句麗軍を敗走せしめて快勝します。
遼東城の包囲戦では、高句麗の籠城戦に隋本隊が苦戦を強いられます。
隋の水軍が平壌を攻めますが、敗退し、高句麗将軍:乙支文徳による追撃により隋は大敗を喫してしまいます。(第二次高句麗遠征)
613年、煬帝は、高句麗遠征の軍を挙げます。
再度、遼東城での攻防戦が繰り広げられている最中に、隋国内で楊玄感が叛乱を起こしたため
撤退をすることになります。(第三次高句麗遠征)
隋の内乱は鎮圧しましたが、国内が不安定になりつつありました。
614年、再度煬帝は高句麗遠征を実施します。
高句麗も疲弊していたため、隋軍が平壌に進軍してきたときに降伏を願いました。(第四次高句麗遠征)
隋と高句麗が争った間618年までに百済は新羅の城を次々を攻略し旧百済領を回復するに至りました。
隋国内は、次々と叛乱が発生し、遂には煬帝の縁戚である李淵将軍が反旗を翻し、煬帝を皇帝から廃止、三代皇帝を擁立し実権を握ります。
そして皇帝の座を禅譲し唐を建国します。(618年)
隋は数度の高句麗遠征が原因で滅んだと言っても過言ではありません。