中国軍閥

意外に面白い中国近代史:辛亥革命と軍閥群雄割拠の時代④

日本人にはあまり馴染みのない中国・辛亥革命と軍閥の抗争時代・・・・。
実は、近代中国史は三国志演義顔負けの群雄割拠の覇権レースの時代で面白いのです。

前回パート3の記事はこちらです。

1.第一次北伐

北伐を決意した蒋介石率いる国民革命軍の課題は5大軍閥(張作霖、孫伝芳、呉佩孚、閻錫山馮玉祥)をどのように攻略するかであった。

蒋介石は、南方軍閥同士の争いから救援を求めてきた湖南軍閥:唐生智を味方に加えることに成功する。
また既に孫文支持を表明していた広西軍閥(新広西派):李宗仁など含め北伐軍を編成する。

北伐軍は8軍団で編成され、第一軍を蒋介石が司令官を務め総勢10万の軍勢。
各軍団の司令官は以下のラインナップです。

第一軍 蒋介石 (副司令官:李英九、 総参謀長:王義功)
第二軍 丹羽偉
第三軍 朱培徳   
第四軍 李済深   
第五軍 李福林   
第六軍 程潜
第七軍 李宗仁(広西軍閥)
第八軍 唐生智(湖南軍閥)

その頃、北京攻略を失敗した西北軍閥:馮玉祥がソ連に逃げたため、張作霖、呉佩孚ら他の軍閥が赤化(共産主義化)を警戒し対馮玉祥包囲網とも言える共同戦線を張られていた。
当初中立の姿勢であった山西軍閥:閻錫山対馮玉祥包囲網に参加している。

馮玉祥は、西北軍閥の指揮権を張之江・鹿鍾麟らに委ねていたが、予想外に両名は善戦し、北京郊外の昌平南口鎮にて張作霖、呉佩孚連合軍の侵攻を3か月間に渡って守り抜いた。(南口大戦 1926年)

北方軍閥間の抗争を好機と見た北伐軍はまず呉佩孚への攻撃を開始する。
馮玉祥の西北軍閥との抗争で北京郊外まで進軍している間に蒋介石率いる北伐軍が呉佩孚の本拠地:武漢まで迫ってきているとの情報を耳にする。
呉佩孚は急ぎ湖北省の汀泗橋で国民革命軍を迎え撃つことにしたが大激戦の末に大敗を喫してしまう。 
その後四川省まで逃げて再起を図るがその夢は叶うことはなかった。
 国民革命軍は本拠地を「武漢」に移し、武漢政府と呼ばれることになります。

5大軍閥:孫伝芳は、孫文が掲げた三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)に対抗して、
三愛主義(愛国家、愛人民、愛敵人)を唱えて中華の主導権を取るためのスローガンとしていた。
 北伐軍が、呉佩孚に攻略をしていた頃には、対岸の火事としか考えていなかった。
しかし、呉佩孚が敗退すると次は我が身との危機感を感じて江西省に軍勢を派遣するが、敗北し南京に撤退する。

孫伝芳張作霖との関係改善を実施し、張作霖を安国軍総司令とした連合軍を結成して北伐軍と対抗することになった。
奉天派:張宗昌が南下して北伐軍との激突するが、安徽省や上海にて敗れ去っている。
 孫伝芳奉天派:張宗昌の援軍を得ても劣勢は覆せず、遂に南京が陥落し、軍事的・政治的基盤を完全に失い北方へ逃走するが、
復権はならず表舞台から姿を消すことになる(1927年)

第一次北伐は、2大軍閥:呉佩孚孫伝芳の崩壊で幕を閉じた。

2.南京事件と反共クーデター

この南京陥落の時に有名な「南京事件」が勃発する。
南京城を攻略した国民革命軍の兵士たちが、日本を含む外国領事館と居留民に対し「軍閥討伐」という目的以外に「欧米の帝国主義排除」を掲げて南京で外国人を虐殺した事件である。

日本領事館は蒋介石の軍が入城したとき、国民党軍は規律正しいと聞いていたので安心していたため、防衛対策が万全ではなかったという。

「南京事件」の真相は、外国の干渉をさそって蒋介石を倒す中国共産党の計画的策謀であるということが発覚し、またソ連の軍事顧問ミハイル・ボロディンが黒幕であったという噂になった。
 欧米列強とは対峙したくない蒋介石の怒りは凄まじく、事件を起こしたと言われる共産党の指導者90名の粛清を断行した(上海クーデター/四・一二事変)。 

南京事件で領事館や国民が被害にあった日英米仏伊五か国はそれぞれ蒋介石からの謝罪と協定を結ぶことにより、「南京事件」による国際問題は一旦収束をする。
 蒋介石の国民革命軍は、この事件を境にソ連と断交することになる。
また武漢政府では、左派の汪兆銘による政権であったが、反共クーデターの結果、実権が蒋介石ら軍部に移ることになり南京を本拠地とした「南京政府」となる。

3.第二次北伐

南京事件など諸外国との関係改善や上海クーデターによる反共運動が一段落したところで、北伐が再開することになります。
日本の資金・軍備援助も受けている奉天派:張作霖の武力が、北伐軍とっては脅威であった。
蒋介石は残り2大軍閥の馮玉祥閻錫山との会談を実現し、和睦に成功する。

馮玉祥閻錫山が北伐軍として参加することになり、北伐軍は4つの軍団に再編成された。
第二次北伐軍は総勢40万と号した。

第一軍 蒋介石
第二軍 馮玉祥(西北軍閥)
第三軍 閻錫山(山西軍閥)
第四軍 李宗昌(広西軍閥)

張作霖支持の日本軍も山東への出兵をし、済南で北伐軍と激突をする(済南事件)。しかし日本軍との衝突を避けたい蒋介石は「満州には侵攻しない」という密約を日本軍と交わす。
 張作霖の扱いに迷いがあった日本軍は、蒋介石の申し入れを受け入れて積極的な戦いをしなくなっていた。

日本軍支援が無くなった奉天派:張作霖は、北京を支えきれずに敗走する。(1928年)
1928年6月8日、北伐軍は北京に入城した。

根拠地:奉天へ向かう張作霖が乗車する満州鉄道が、途中で爆破し 張作霖が爆死するという事件が勃発する。
日本史でも有名な(張作霖爆殺事件)である。(1928年)
張作霖の後釜として楊宇霆を擁立しようとしていた日本関東軍の謀略だという噂もある。


張作霖の息子:張学良は日本関東軍の行動を察知し楊宇霆の暗殺をすることで、奉天派の勢力を吸収することに成功、張学良によりまとめられた奉天派は、国民革命軍の蒋介石に協力することとなった。

呉佩孚、孫伝芳、張作霖の3大軍閥が滅んだことにより、「北伐」は終了する


蒋介石は、北京にあった孫文の遺体を南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山廟)を築いて祀り、孫文の宿願であった北京政府打倒を果たしたことを報告して涙したのであった。

パート5に続く

次回予告 

北伐により中国の統一は成った。。。。かに思われた。
国民革命軍に恭順を示していた軍閥たちが特権を奪われることに危惧し反旗を翻した。
そして中原の覇権を掛けた最後の会戦が勃発する!

中華の歴史がまた1ページ・・・・。

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