中国軍閥

意外に面白い中国近代史:辛亥革命と軍閥群雄割拠の時代②

日本人にはあまり馴染みのない中国・辛亥革命と軍閥の抗争時代・・・・。
実は、近代中国史は三国志演義顔負けの群雄割拠の覇権レースの時代で面白いのです。
NEMlogを利用して マイナーな歴史を知ってもらおうという無意味で自己満足な取り組みの第二弾です!

前回の記事


1・袁世凱後の政権分裂(北京政府と広東政府)

袁世凱の死後の政権人事は、大総統:黎元洪、副総統:馮国璋、国務総理:段祺瑞となっていた。
北洋軍閥の2大派閥:段祺瑞(安徽派)、馮国璋(直隷派)の権力争いも始まる中、大総統:黎元洪段祺瑞は第一次世界大戦に対ドイツ宣戦の方針に際し、意見対立が生まれてしまう。
 日本の支持を受けようとする段祺瑞に対し、アメリカ支援を受けるべきという黎元洪の意見であった。結局、黎元洪段祺瑞を国務総理から罷免することになり、両者は決裂。

 更に両者は旧清朝の軍人:張勲を動かして優勢を保つことを画作しようとします。
張勲黎元洪の要請を受けて段祺瑞の追討の動きを見せますがこれを利用し清王朝:宣統帝を擁立し、北京を急襲し占領、黎元洪を失脚させ下野に追い込んでしまいます。
そして再び、清朝樹立が宣言するが張勲の政権は誰の支持も得ることが出来ませんでした。

北洋軍閥の2大派閥:段祺瑞(安徽派)、馮国璋(直隷派)は、この時は協力して、張勲を討伐に成功しました。(1917年:12日天下(張勲復辟))

段祺瑞はこの後、国会を解散し、総統の地位を馮国璋とし、中華民国臨時約法が既に存在しないことして新政府を樹立を宣言した。

北京に動きに孫文は反発し、辞任させられた国会議員に対して広東にて北京政府とは別の政権樹立の働きかけをする。(護法運動)

南方の最大軍閥である雲南軍閥:唐継尭広西軍閥:陸栄廷も孫文の広東政府を支持すると宣言した。
中華民国に 北京政府と広東政府の2つの政権が両立するという事態となる。

しかし南方軍閥側でも、権力闘争が激化します。
大元帥府を制定し大元帥となった孫文は、元帥として唐継尭陸栄廷の2名を推薦しますが、孫文の風下に甘んじることをよしとしない両名は、就任を拒みます。

7人の総裁(孫文、唐紹儀、唐継尭、伍廷芳、程璧光、陸栄廷、岑春煊)による集団指導体制に改定をすると陸・唐は総裁就任に応じました。
 その後、陸栄廷岑春煊を主席総裁に擁立し広東政府の主導権は広西軍閥:陸栄廷に移り、孫文の政権内での影響が形骸化させられます。

雲南軍閥の唐継尭が大幅な軍拡を実施し、四川軍閥:劉存厚と何度も衝突し独自勢力の拡大する動きをします。
 四川軍閥:熊克武貴州軍閥:袁祖銘と結託して孫文の掲げた護法旗幟の名を利用して靖国(国家安泰)を目指した連合軍を結成します。

2.北京政府の情勢 (安直戦争)

孫文の護国運動により広東政府が樹立されたことに対して、北京政府では、北洋軍閥の2大派閥、段祺瑞(安徽派)、馮国璋(直隷派)の意見の対立が深まっていました。

張作霖(奉天派)の協力を得た段祺瑞(安徽派)は、武力による南征の計画します。馮国璋(直隷派)は対抗して和平交渉を進めようとします。

段祺瑞は、広東政府側の湖南督軍譚延闓を罷免し、後任に腹心の傅良佐を着任させて、挑発します。 広東政府側の譚延闓 は目論見通り、北京政府への攻撃を開始し、南征武力討伐の口実を得ます。
討伐の前線にあった湘南軍正副司令は直隷派の王汝賢・范国璋であったのですが、馮国璋(直隷派)は密かに指示してこの2人を撤兵させてしまいます。
取り残された傅良佐陸栄廷率いる広西軍閥の攻撃に耐えきれず敗退してしまいます。

馮国璋(直隷派)の裏工作が遠因で、南征の失敗の責任を問われた段祺瑞(安徽派)は国務総理の座を辞任することになりました。

一時劣勢となった段祺瑞(安徽派)でしたが、懐刀の徐樹錚馮国璋(直隷派)へ謀略を巡らし反撃します。曹錕(直隷派)を調略し直隷派の分断に成功、奉天派の張作霖を閣僚内に引き入れて政治闘争を有利に進め、国務総理に復帰を果たします。

1919年直隷派の盟主:馮国璋が死去し、求心力を失った直隷派は、次第に安徽派により権力を失いつつありました。

馮国璋の後任として新大総統に、袁世凱の盟友であった 徐世昌が就任することになりました。
徐世昌は学識もあり、人望もあったが、大総統になると、権力欲が増して権謀術数を使い始めるようになります。

徐樹錚(安徽派)は、次々と政敵を打ち倒し、強大な権勢を振るうようになります。その権勢は、安徽派内部でも反発されるほど強行なものであったといいます。

また継続をしている南征の軍事行動において直隷派の呉佩孚や馮玉祥が勇戦しているにも関わらず、戦功のなかった張敬尭(安徽派)を贔屓に評価したことに直隷派の将軍たちは反発、調略したはずの曹錕も直隷派支持の動きに転じてしまう。

さらに大総統:徐世昌は、自らの権力をも上回る徐樹錚(安徽派)を不快に思い、直隷派と手を組みます。
そのころ袁世凱独裁時代に欧米諸国(日本含む)と締結した不平等条約の改正を求めて世論が発生した「5・4運動」の矛先が、親日派の徐樹錚らの一派に及びます。
これを契機として 直隷派が、安徽派を攻撃するという事態が生じます(1920年:安直戦争)。

そして、徐樹錚(安徽派)によって自らの権威を脅かされつつあった奉天軍閥:張作霖が、直隷派に味方することになりました。

これが決定的となり「安直戦争」は、わずかの期間で勝敗が決定し直隷派の勝利に終わります。
段祺瑞は下野し、徐樹錚も日本に亡命し、安徽派は瓦解し、直隷派が、北京政権の実権を握ることになります。

3.広東政府の情勢(広西軍閥:陸栄廷の失脚)

広東政府の実権を握った岑春煊と広西軍閥:陸栄廷は北京政府(主に直隷派)と融和政策の交渉を始めようとします。
孫文、唐紹儀、唐継尭、伍廷芳など他の総裁は反発し、広東政府内で、反広西軍閥の動きが加速していきます。そして孫文の支持を表明した広東軍閥:陳炯明が、広西軍閥:陸栄廷を攻撃します。(両広戦争1920年)陸栄廷と岑春煊は敗れて失脚します。

孫文は、福建軍閥:陳炯明の軍事力を背景に、広東政府に戻ることになりました。(1921年)

4.北京政府の情勢 (第一次奉直戦争 (直隷派:呉佩孚の天下))

大総統:徐世昌は、直隷派が、新たに強大な権力を持つことに不満を持つようになります。
一方、呉佩孚(直隷派)は、張作霖(奉天派)が、先の戦争による権益を持っていったことに不満を覚えます。

外交政策においてもイギリス・アメリカと結ぶ直隷派と日本と結ぶ奉天派との間で主導権争いが激化する中で、大総統:徐世昌は、奉天派と組んで直隷派を潰そうと目論見ます。

そして、北京の覇権を巡り直隷派と奉天派が激突します。(1922年:第一次奉直戦争)

結局、イギリス・アメリカの力を背景とした直隷派の勝利に終わり、張作霖は、奉天に逃げ帰り、大総統:徐世昌は、失脚し新大総統には、黎元洪が返り咲いた。

5.広東政府の情勢 (陳炯明の失脚)

北京政府の内乱(第一次奉直戦争)に乗じ、奉天派と組んで、北伐の軍を起こそうと計画する孫文であったが、広東軍閥:陳炯明が反対する。
 孫文と陳炯明の間を取り持っていた鄧鏗が暗殺されると 両者は完全に決裂し、陳炯明が孫文の住居を攻撃するに及び、孫文は広東政府から追放されてしまう(6.16事件 1922年) 
しかし、孫文は雲南軍閥:唐継尭広西軍閥:李宗仁、白崇禧など諸軍閥と連合を組み、広東から陳炯明を駆逐することになります。

その後、孫文は軍閥の支持による政権の維持は不可能と判断し、自分達の兵力で革命の成就を模索するようになります。

6.北京政府の情勢 (第二次奉直戦争「奉天派:張作霖の天下」)

浙江軍閥:廬栄祥(旧安徽派)の領土を狙い、江蘇軍閥:斉燮元(直隷派)の対立が激化します(1924年:浙蘇戦争)廬栄祥は敗れて、日本に亡命します。

張作霖は、廬栄祥を救援するために軍を進軍していたが、直隷派:呉佩孚が、迎撃に出たため、再び奉天派と直隷派が激突することになります(1924年:第二次奉直戦争)

しかし、ここで、思わぬ事態は起こります!
馮玉祥(直隷派)が、呉佩孚が留守にしていた北京を占領してしまったのである。

後方から 味方であるはずの馮玉祥から攻撃を受ける形となった呉佩孚は、山東省に敗走する。
こうして、苦もなく張作霖(奉天派)が北京の実権を握ることとなった。


張作霖は、段祺瑞(元安徽派盟主)を新大総統として要請したが、段祺瑞は、臨時執政としてのみ北京政府を統括すると条件を出して、新政権に参加することになった。  

7.広東政府の情勢(第一次国共合作)

上海にてソビエト連邦より中国統一運動の支援を約束された「孫文・ヨッフェ宣言」を宣誓することにより第三次広東政府が誕生する。(1923年)

そして1924年 広東で開催された第一次全国代表大会で、「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立する。

また日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行ったのもこの時期です。
日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、
欧米の帝国主義に対し東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えたのです。

まとめ

北京と広東に二つの政府が樹立し、覇権を握る人物が次から次へと移り変わる群雄割拠の時代に翻弄される革命家たちという構図です。

三国志に例えると 孫文=献帝に見えてくるように思えますが、三国志の展開と違うのは 孫文が自ら武力を持つ決意をするというドラマティックな展開になってきました!
映画の三部作だとしたらいよいよクライマックスですね(w)
しかし、まだまだ軍閥同士の抗争は終わりを見せません!!

パート3へ続く

次回予告

革命未だ成らず・・・・。
中原は軍閥の抗争によりますます混沌になっていた。
しかしながら孫文の体は癌に侵されていたのであった・・・。

中華の歴史がまた1ページ・・・・。

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