日本史

欲望と愛憎の劇場・源頼朝が大敗した石橋山の合戦

私が歴史に興味を持ったのは、小学生低学年の頃に、親から買ってもらった歴史の漫画でした。
まだ歴史の勉強をしていなかった私が高学年の兄から源頼朝という偉い人の話を訳も分からず聞いており、当時は「源頼朝って偉くて強いんだろうな・・・」と漠然と思っていたものでした。
そんな矢先に 小学館の漫画日本の歴史⑥ 源平の戦いを買ってもらいました。

@小学館 漫画日本の歴史⑥巻 「源平の戦い」

そして 読んだ漫画で 打倒平家の旗揚げをした源頼朝が当初は連戦戦勝で勝利した後に、この場面!!
頼朝公のまさかの大ピンチ!

@小学館 漫画日本の歴史⑥巻 「源平の戦い」

関東の平家軍総大将:大庭景親と伊豆の平家方武将:伊東祐親に挟撃されコテンパンにやられてしまうのです。

無敵のヒーローと思っていた頼朝公のテンパる姿に子供ながらショックを覚えたものでした(w)

その頃から「石橋山の合戦」は 気になるエピソードの一つになっております。

そして、その合戦の経緯と武将達のその後を知ると、昼ドラマ並みの欲望と愛憎うずめく人生ドラマが垣間見られるので、ご紹介をしたいと思います。

石橋山の合戦に至るまでの欲望と愛憎の出来事

ここで、源頼朝~石橋山合戦・愛憎劇場~に登場させようとしている主要人物の紹介します。

大庭景親・景義兄弟
平清盛
伊東祐親・八重姫親子
北条時政・政子親子

源頼朝と大庭兄弟:
石橋山合戦で平家軍総大将の大庭景親は、もともとは源頼朝の父:義朝の家臣として活躍した武将でした。
保元の乱では、兄:大庭景義と共に目立った働きもしています。

@小学館 漫画日本の歴史⑥巻 「源平の戦い」

その後 源義朝と平清盛の対立して京で平治の乱(1159年)が始まります。関東にいた大庭景親は、参戦することが出来ず平家軍の勝利、源義朝が斬首されたという話を聞き愕然とします。
世の中は平清盛の一族が君臨することになり、「平家であらねば人にあらず」とウェイウェイすることになりました。
(なんだか寝ているだけでお金が増えてBBQなどウェイウェイやっていた仮想通貨民を思い浮かべます・・・)

その時、大庭景義と景親は、違う生き方を選ぶことになりました。
大庭景親は平家軍に協力を誓い、兄:景義は源氏への忠誠を誓い雌伏の時を過ごします。

源頼朝と平清盛
天下を取った平清盛は、政敵の源氏勢力を徹底的に排除にかかりました。
源義朝の13歳の息子:頼朝を処刑を命じた時には、清盛の継母:池禅尼が頼朝の助命を嘆願したため、伊豆の島流しに変更したのでした。

伊豆に島流しにされた源頼朝は、源氏の御曹司という肩書も手伝ってかなかなかのプレイボーイでした。
プレイボーイ・頼朝と恋愛関係にあった伊豆の豪族の娘二人との関係を覗いてみましょう。

源頼朝と伊東祐親・八重姫親子
平清盛の信任を得て頼朝の監視役となっていた伊豆の豪族:伊東祐親の娘:八重姫と恋仲になり孕ませちゃいます!
それを聞いた伊東祐親は大激怒!赤子を下ろさせ、頼朝の襲撃を企てましたが、頼朝はどうにか難を逃れています。

静岡県伊東市 市役所の 伊東祐親騎馬像 (伊東市の地名にもなった地元の英雄です)

源頼朝と北条時政・政子親子
懲りずに、頼朝は、伊豆の豪族:北条時政の娘:政子とも恋仲になります。北条時政もこれには困り、別れさせようと企てますが、二人は大恋愛であったため、時政が折れて婚姻を結ぶことになります。

仲睦まじく富士山を眺める頼朝と政子の銅像
静岡県伊豆韮山町 蛭ヶ島公園 (頼朝流刑地跡)

そして石橋山の合戦が始まった。。。。

頼朝が島流しになってから20年後、1180年に以仁王の反平家の令旨に呼応した全国武士が平清盛に反旗を翻します。
源頼朝もこの盛り上がりに参加し伊豆で旗揚げをすることになりました。

まずは、伊豆の有力豪族の山木兼隆や佐々木兄弟を滅ぼして意気盛んになった源頼朝の軍勢は、鎌倉に攻め上ぼることになりました。
その矢先に勃発したのが「石橋山の合戦」です。

戦いの結末は、源頼朝が石橋山付近で、大庭軍と伊東軍の軍勢が差し迫っていることに気づくが、援軍として待ち合わせしていた三浦半島の三浦義明軍が雨のための川の氾濫で遅れてしまったため、完全に袋の鼠になってしまった頼朝軍が総崩れになったことで、勝敗が決しました。

石橋山古戦場跡は、小田原市海岸沿いの国道135号線の西湘バイパス「石橋IC付近」の崖側にあるふと見逃しそうな看板が出ている「石橋山古戦場跡」を上がった小高い丘の上にあります。
丁度訪問した当時は、雨の降る日でした


  
時間がなかった為、寄らなかったが、この戦いで源頼朝の退路を開くため壮絶な討ち死にを遂げた佐奈田与一を祀っている「佐奈田霊社」以外は、特に見るべきものもないのでこの場所から波が高い相模湾を眺めてみた。

迫り来る平家軍「大庭景親 3000騎」と「伊東祐親 300騎」に怯えながら、嵐のため遅れる援軍「三浦義明軍」を待つ源頼朝の心境を想像できた気がした(笑)

おそらく
「やべぇー、三浦来ねえよ(怒)遅せえよ!負けちゃうジャン!洒落になってねえ・・・・。政子とオヤジ(北条時政)の言うこと聞かなきゃよかったよ・・・マジで!!(汗)」

と頼朝公は思っていたことでしょう(笑)

平家の追撃を逃れるため、源頼朝は洞窟に隠れていましたが、大庭景親軍の梶原景時に発見されてしまうピンチがありました。
しかし梶原景時が見逃したため、どうにか海路で安房国に逃げ延びることができました。

その後、安房国で、父:源義朝の恩義に報いるためと頼朝の元に集った武士団を取りまとめ鎌倉で挙兵します。
大庭景親の兄:景義は、「いざ、鎌倉」とばかりに頼朝の元に馳せ参じます!


再び頼朝追討の軍を挙げた大庭景親と伊東祐親でしたが、今度は惨敗を喫し、駿河国で捕らえられます。

大庭景親は、兄:景義の助命嘆願にも関わらず、斬首されてます。
伊東祐親は、死罪を免れますが、その判決に潔しとせず、自害してしまいます

平清盛は高熱のため病に伏し「自分の死後は頼朝の首を墓前に・・・」と言葉を残し死去します。
その後の平家一門の没落は歴史が語るところです・・・

まとめ

石橋山の合戦を読み解くと、源頼朝を中心とした欲望と愛が絡み合った愛憎劇だったと分かります。

関東の平家総大将に抜擢された大庭景親は、成り上がるためにかつての主君の息子を討伐する軍勢を率います。
もうなりふり構わず、一時的な地位と名誉の欲望に目が眩んだ行動としか見えません・・・・。

最近も多いですよね・・・スピーカーの声が大きい案件に乗っかって一時的には利益得るけど、そのあと目も当てられない状況に陥ってしまい逆切れするような人たちを・・・・。

伊東祐親は、大事な娘を孕まされた親の怒りのパワー全開、遊び人頼朝を抹殺するための軍勢を差し向けたのでしょう(w)

北条時政は、娘婿の頼朝が天下を取れば、地位も財も思うがまま・という欲望が頭にかすめていたことでしょう。

この両名は、親御さんとしての行動になりますが、娘の彼氏の将来まで見据えることが出来るか?または娘さんの気持ちを最優先にしてあげられるかで未来が開かれたという事例とも言えます。

そして非力だった源頼朝を13歳で処刑することができなかった平清盛は、一番悔いたことでしょう・・。
政治闘争で成功するためには、時には冷酷で非情になることも必要であることが分かる事例です。

上の事例は、欲望と愛憎の物語ですが、以下2名は誠の愛と忠義の物語として清々しい気持ちにさせてくれます。

大庭景義は、平家全盛の世の中で、主君への忠誠を最後まで貫いた武士の鑑として、鎌倉幕府では中心人物として終生尊敬されることになりました。
一時的な名誉に目を眩ませずに自分が信じた(本物の)道を貫くことで道が開かれるということを語ってくれます。こういう漢(おとこ)でありたいですね(w)

北条政子は、頼朝との大恋愛の末に親の反対を押し切って結婚をし、苦難の道を歩く夫を支えて遂に成功まで導いた・・・。実は、頼朝は頼りない一面もあったため、政子に尻をひっぱたかれながらだんだんと将軍らしい人物になったという噂もあります。政子は恐妻家でもあったんですね(w)
プータローなイケメンな御曹司を捕まえてしまった女子は、北条政子を見習えば、夫を出しにして自分の方が成功できるに違いありません。

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