レッドバロンって誰?
街角にある中古バイクの販売買い取り会社「レッドバロン」の看板を目にしたことはありませんか?
そして気になる
このアイコンのオッサンのモデルは誰でしょうか?
彼は、第一次世界大戦のドイツ空軍で前人未到の80機撃墜を成し得てイギリス・フランス連合軍を恐怖に陥れ
「深紅の男爵(レッドバロン)」と呼ばれたドイツ空軍の撃墜王
マンフリート・リヒトフォーフェン男爵です。
(生年1892年~没年1919年)
1892年プロイセン貴族の子として現ポーランド領シュレージェン地方ブレスラウに生まれたリヒトフォーフェンは
騎兵隊の将校であった父の薦めで、ドイツ陸軍幼年仕官学校に入学します。
士官学校を卒業した後に第一次世界大戦勃発します。
ドイツ陸軍騎兵隊に所属し、華々しい戦績を積み重ねる夢を見ますが、現実は塹壕の中で戦闘を繰り広げる毎日・・・・。
リヒトフォーフェンは思い切って上官に空軍へ転籍を願い出て受理されます。
その航空隊で、彼の航空戦の師でもあり友でもある「ハウプトマン・オズワルド・ベルケ少尉」と出会います。
ベルケ少尉はドイツの撃墜王として名を馳せていた人物でした。
そのベルケ率いる「第2戦闘中隊」に配属となり、リヒトフォーフェンは航空戦の腕を挙げていきます。
ベルゲ少尉は、西部戦線「ソンムの戦い」で撃墜機の数を40機まで伸ばす活躍をします。
ある戦闘の最中にベルゲ少尉の機が味方の機と激突し墜落し戦死します。
リヒトフォーフェンはベルゲの後釜として、新たに創設された「第11戦闘中隊」の隊長に任命されます。
「リヒトフォーヘフェンサーカス」と呼ばれる伝説の空中戦闘機編隊の誕生です!
リヒトフォーヘンはの愛機(フォッカーDr.Ⅰ)を赤く塗装していたため、連合軍のパイロット達から
「赤い悪魔(ル・ディアブル・ルージュ)」
と呼ばれ畏怖の対象となっていました。
1917年4月、連合軍の攻勢(ニヴェル攻勢)が始まります。
リヒトフォーフェン率いる「第11戦闘中隊」は連合軍の戦闘機245機を撃墜させます。
連合軍はこの戦闘を「血の四月」と名づけて戒めとしたほどの惨敗だったと言われています。
この頃からアメリカの新聞がリヒトフォーフェンを取り上げ「深紅の男爵(レッドバロン)」と呼びはじめるようになりました。
連合軍はアメリカの参戦で息を吹き返しドイツの劣勢が続きます。
すでに航空部隊の司令官となっていたリヒトフォーフェンでしたが苦戦の続く最前線の部下を見捨てられないと
自ら愛機に乗り戦闘に加わります。
1918年のドイツ軍の「カイザー攻勢」の時期には、彼の撃墜機数を80機撃墜まで伸ばします。
その後の戦闘で、イギリス空軍「アーサー・ロイ・ブラウン大尉」の操縦する戦闘機(キャメル機)が、
地上オーストラリア軍第53砲兵中隊の対空砲火に合わせて「リヒトフォーフェン」機を目掛けて攻撃をかけます。
レッドバロンと恐れられた「リヒトフォーフェン」は撃墜されその生涯を閉じることになります。
大量の機関銃や毒ガス攻撃、戦車や潜水艦の登場、塹壕を掘って砲弾の応酬をするような西洋の騎士道とは程遠い近代戦を繰り広げられた第一次世界大戦において空中戦は、唯一騎士道が残っていた場所でもありました。
「リヒトフォーフェン」が存命中に、こんなエピソードがあったそうです。
イギリス・フランスなど連合軍が執り行う葬儀の会場上空に、深紅のドイツ戦闘機編隊が飛んできました。
大胆にも会場上空を低空飛行して敵パイロットへ追悼の花輪を落として去っていったというのです!
カッコ良すぎる~!!
株式会社レッドバロンの公式サイトに映画『レッド・バロン』とのタイアップを記念した動画は掲載されていました、