中華史戦国七雄

中華・戦国七雄の時代⑨秦1強の時代(4)

紀元前250年、秦では昭襄王の後継者として考文王が即位するが、数年で死去すると太子:子楚荘襄王として秦王に即位する。
荘襄王が太子時代に趙に人質になっていた頃から後見人的な立場にあった呂不韋(りょふい)が宰相に就任する。

信陵君が不在となった魏は秦からの執拗な侵攻を受けるようになる。

魏の危機に際し、趙にいた信陵君に、魏:安釐王から過去の一件は問わぬから宰相として戻ってもらえないかと懇願の使者が訪れる。
 魏の謀略ではないか?と疑う信陵君に対して、食客達が「母国の危急存亡の危機を見て見ぬふりをしておられるが、魏の祖廟が秦に荒らされたときに何を以て天下に顔を向けられますか」と諫められた。
この言葉に信陵君は心を動かされ、魏に帰還することになる。
安釐王は涙を流して信陵君を迎え入れたという。

紀元前247年、魏では信陵君が上将軍に任命され、秦軍へ対して反撃に転じます。

これを受けて、趙・韓・楚・燕が魏に援軍を送り、5か国が合従連合軍が成立することになった。
秦は蒙驁(もうがく)王齕(おうこつ)の2将軍が迎撃するが信陵君率いる連合軍の勢いを止めることが出来ず敗退した。(河外の戦い)

五か国合従連合軍は、そのまま秦の函谷関にまで迫り秦の進撃を押し返すことに成功した。
函谷関を突破することは出来ずに連合軍は撤退することになるが、この戦いで5か国の軍権を委ねられ軍事の手腕を発揮した魏:信陵君の名声は天下に轟いた

その後、魏では、信陵君による王位簒奪をするのではないかという噂が流布する。
和解したはずの安釐王も再び信陵君を政治から遠ざけるようになってしまう。
その一件があってから信陵君は、酒びたりの生活になり体を壊し紀元前244年に失意のうちに死去してしまう。
実はこれは秦による謀略だったと噂される。

紀元前246年 秦では荘襄王が在位3年で死去し太子:政(後の始皇帝)が王位を継承することになった。

紀元前245年、趙と魏が交戦状態となり趙の廉頗(れんぱ)が魏の繁陽を占領に成功する。

趙:考成王が死去し悼襄王が即位するが、悼襄王は趙の将軍職を廉頗から楽乗(がくじょう)に替える人事を言い渡した。
この人事に納得いかない廉頗と楽乗が対立して戦闘状態となってしまう。
この趙軍の内戦廉頗が勝利し、楽乗は趙を逃亡、廉頗も趙を出奔し魏に亡命をすることになった。

ツートップの将軍が同時に不在となってしまった趙では、いままで目立つことになかった老将:龐煖(ほうけん)が将軍筆頭として抜擢されることになる。
また北方の匈奴討伐で活躍した李牧(りぼく)が趙の将軍として頭角を現していた。

 

紀元前242年、先年に趙に返り討ちにされた燕は、将軍:劇辛(げきしん)が趙の名将:廉頗が出奔して後任の将軍となった龐煖を侮り趙の攻略を燕王に進言する。

燕:劇辛が趙に攻め入るが、龐煖が巧みな兵法家であったことが証明され劇辛は混戦の中で戦死し、燕は敗退する。 
趙:李牧の武遂と方城を攻略してその勢力を拡大する。

いよいよ次からは 大人気漫画「キングダム」の時代に突入します。
※ちなみにまだキングダムを読んだことがありません。

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