中華・戦国七雄の時代④ 斉・秦 2強の時代(1)
秦は武王が即位すると縦横家の張儀が失脚し、丞相に樗里疾と甘茂が任命されることになった。
張儀が唱えた「連衡」の外交方針は一方的に切り捨てられた。
紀元前307年、武王は、周王室に代わり、天下に号令を発したいと願い、手始めに魏と連合して韓の重要拠点:宜陽を攻撃した。
5か月の激戦の末に、秦は宜陽を攻略したものの韓と秦の双方が兵力を疲弊しただけの戦闘になってしまった。
そんな最中に秦王:武王は力自慢の家臣:猛説と鼎を持ち上げる力比べをして肋骨を折り事故死してしまった。
秦では後継者争いが勃発し、昭襄王が即位をすることになる。
平定していた蜀でも叛乱が起こるなど、叛乱は鎮圧したものの一時的に秦の国力が低下してしまう。
この頃から趙は小国:中山に攻め込み勢力の拡大をし始める。
紀元前306年、楚が韓に攻め込み韓の拠点:雍を包囲した。
韓の宰相:公仲侈がかつて韓に攻め込んだ秦の甘茂に救援を求めてくる。
甘茂のとりなしで韓を救援することになったが、韓救援の反対派の向寿と公孫奭が秦王に甘茂のことを讒言するようになり、身の危険を感じた甘茂は斉の蘇代のとりなしで斉に亡命した。
同年、今度は、斉・魏・韓が連合して楚に攻め込んだ。
楚の太子:横を人質として秦に送り込むことで秦に救援を依頼したため、斉・魏・韓の三国は撤兵した。
人質として秦に滞在中の楚の太子:横が秦の大夫を殺して楚に逃亡したことがきっかけで秦と楚の両国関係が険悪になった。
紀元前301年、秦は韓・魏・斉の軍と連合して楚を攻撃。重丘で撃破した。
これによって、楚が大幅に弱体化することになってしまう。
斉の王族:田文は戦国四君の一人に数えられ孟嘗君と呼ばれ、その名声を天下に名を轟かせていた。
また孟嘗君は様々な才能を持つ人物を食客として扱い孟嘗君の周りは数千人規模の一代サロンのような場にもなっていた。
集まって来た食客は剣術、武術の達人以外に、動物の鳴き真似名人や盗みの天才など様々な人物たちがいた。
秦の昭襄王がその名声の噂を聞きつけ、秦王の弟を斉に人質にする代わりに、孟嘗君を秦に訪問してもらえるよう要請した。
反対を押し切り、食客を伴って秦に向かう孟嘗君であった。
秦の昭襄王は大変喜び、孟嘗君を手厚くもてなした。
しかし当代一の名声を持つ孟嘗君を斉に帰還させずに謀殺する計画を立てられてしまう。
絶体絶命のピンチを救ったのは、盗みの天才や動物のものまねの達人といった食客達であった。
このエピソードは「鶏鳴狗盗(けいめいくんとう)」という「つまらない特技でも何かの役に立つ」事の例え話として有名である。
無事に斉に辿り着いた孟嘗君は、斉の宰相となり、斉の威光はますます輝き始めた。
紀元前296年、斉孟嘗君の主導の元、斉・魏・韓の3国が秦と対立する。
その後、趙・宋が3国に与して5国合従連合軍が成立し函谷関に攻め込んだ(塩氏の戦いまたは五国攻秦之戰)
孟嘗君の名声がますます高まっていることに斉の湣王は、孟嘗君を疎ましく思うようになる。
その頃、趙は、斉の協力を得て中山を従属国として従わせることに成功し、勢力を拡大した。
紀元前293年 秦は白起将軍が魏と韓の連合軍24万を破り鮮烈デビューを果たす(伊闕の戦い)
翌年秦は白起と司馬錯を総大将として魏を攻めたてて領土の拡大をしていく。
紀元前288年に秦:昭襄王は西帝を称した。
宰相の魏冄を斉に遣わして斉:湣王に東帝の帝号を贈った。
秦・斉で天下2分を持ちかけたに等しい行為であった。
しかし家臣に諫められた斉:湣王がすぐに帝号を捨てたので、昭襄王も取りやめることにした。
斉:湣王は、孟嘗君に王位を奪われるのではないかと疑心暗鬼に陥るようになっていた。
それを察知した孟嘗君は、魏に出奔してしまう(紀元前284年)
魏では孟嘗君を手厚く扱い宰相として活躍することになる。