中国軍閥

意外に面白い中国近代史:辛亥革命と軍閥群雄割拠の時代③

日本人にはあまり馴染みのない中国・辛亥革命と軍閥の抗争時代・・・・。
実は、近代中国史は三国志演義顔負けの群雄割拠の覇権レースの時代で面白いのです。

前回パート2の記事はこちらです。

1.新興軍閥:孫伝芳の台頭

第2次奉直戦争で勝利した張作霖(奉天派)が北京政府の実権を握ることになりました。
その頃から揚子江以南を制圧し有力軍閥となった孫伝芳が台頭します。
穏やかな容姿とは真逆な残虐な性格であったことから「笑虎将軍」と異名を持つ人物でした。

直隷派であった孫伝芳は、第2次奉直戦争の前哨戦である江浙戦争で、直隷派の斉燮元を支援し、旧安徽派の盧永祥を撃破し、存在感を増します。
江蘇・浙江一帯では、孫伝芳・斉燮元・盧永祥の3つ巴の勢力が鼎立することになります。

奉天派は、勢力を揚子江一帯まで拡大する意図もあり張宗昌を旧安徽派の盧永祥を支援するために南下させます。
孫伝芳斉燮元と連合して張宗昌(奉天派)に備えますが、奉天派の懐柔策に孫伝芳が乗ったため、斉燮元が孤立し敗走します。
 揚子江一帯の動乱は、奉天派と孫伝芳の停戦で一旦収束します。

しかし奉天派に脅威を感じた孫伝芳は、密かに馮玉祥と連合して、奉天派の張宗昌と楊宇霆を攻撃し、これを撃破する(浙魯戦争、奉浙戦争:1925年)
浙江・福建・江蘇・安徽・江西を占領し、孫伝芳は、揚子江一帯を支配下にいれ、その権力は奉天派と並ぶほど強大になります。

2.南方軍閥の情勢

ここで南方軍閥の2大有力者の状況を整理しておきます。
一時期は、広東政府の実権を握った広西軍閥陸栄廷は、両広戦争(1920年)で失脚以後は、広西省に戻り、広西省で実力者:沈鴻英新広西派の軍閥(李宗仁・白崇禧・黄紹竑)三つ巴の争いをするになります。

軍事力としては陸栄廷が最強であったため、沈鴻英新広西派が連合を組む形勢となり、連合軍に敗北した陸栄廷は広西省からも完全に勢力を失うことになります。
 そして、広西争奪戦の第2ラウンドは新広西派の軍閥(李宗仁・白崇禧・黄紹竑)沈鴻英に勝利します。新広西派の軍閥たちは、孫文の支持をしていたために、後年、蒋介石の北伐では国民革命軍第7軍として参加する。
 特に白崇禧は、策略や奇策を用いた戦術で軍功目覚しく「小諸葛亮」とあだ名が付いた。

雲南の小皇帝と呼ばれた雲南軍閥:唐継尭は1921年、雲南軍閥:顧品珍が反旗を翻し唐継尭を雲南から追い出す事件が発生しました。翌年、唐継尭の腹心の部下:竜雲の手引きにより雲南は再び唐継尭が雲南の支配権を取り戻します。
 たびたび、近郊の軍閥の進軍を繰り返し、1924年には広西侵攻を企てますが、新広西派の軍閥に撃退されてしまいます。
 時代遅れの縁故政治を推し進める唐継尭に対して、孫文の革命政府に協力を決意した竜雲により唐継尭は失脚させられます。その後、雲南の覇権争いの末、勝利し、雲南軍閥は革命政府の支持を表明することになります(1927年)

このように、南方の2大軍閥であった広西軍閥と雲南軍閥は孫文の革命政府(国民党)支持となっていくのです。

3.馮玉祥の北京占領

馮玉祥は、第二次奉直戦争では直隷派を裏切り、浙魯戦争、奉浙戦争では奉天派を裏切った事で、政治的立場が不安定な状態でした。
 どうせなら自らが覇権を握って安泰を図ろうと野望を持ち始めます。
そして1926年、北京を守備する李景林(奉天派)へ侵攻します。
その裏で郭松齢(奉天派)に働きかけ自分に味方するように懐柔策を取ります。
実は郭松齢は、軍備拡大の支援を日本軍から受ける代わりに、便宜を図る張作霖の方針に不満を募られていた風潮があったのです。

馮玉祥の突如の北京攻撃に驚いた張作霖は奉天から全軍を郭松齢に率いさせて北京に救援に向かわせる指令を出します。

が、その時、日本史における「本能寺の変」のような青天の霹靂な事態が起こる。

奉天の全軍を与えて北京救援に向かわせたはずの郭松齢が、張作霖の本拠地に進軍してきたのである!!

張作霖は、黒龍省の騎兵隊を呼び寄せるが、到底間に合いそうも無くまさに絶対絶命であった。
そんな中、直隷派の呉佩孚が張作霖救援の軍を挙げます。
しかし、張作霖の危機な状態は変わりません。
ここで、張作霖は、日本の関東軍にも救援を請う。しかし以前から張作霖は日本から支援を受けているにも関わらず不義な対応をしていたため、日本軍には張作霖に対して心象が良くなく不安定な同盟関係となっていました。
しかし、律儀な日本関東軍は張作霖救援の軍を挙げ、満州鉄道を横断する者は何者たりとも攻撃を辞さないという声明を発します。
日本関東軍の張作霖救援の軍隊を目の当たりにして、郭松齢は、奉天攻撃を目の前にして立ち往生してしまうのであった。

郭松齢は、張作霖救援に駆けつけた黒龍省の騎兵隊に急襲され惨殺されてしまう。「郭松齢事件」(1926年)

一方、馮玉祥は、李景林(奉天派)を救援に来た張宗昌(奉天派)により挟撃され敗走を余儀なくされました。
キリシタン軍閥としても有名であった馮玉祥は、一時ロシアへと亡命し「キリシタンが今度は赤化した」と揶揄されることになります。
こうして、何度か危機的な状態であった張作霖でしたが、どうにか北京政府の支配者として君臨することができました。しかし馮玉祥の侵攻により北京は無政府状態に陥ってしまっていたのです。

4.革命未だ成らず・・北伐開始(蒋介石の登場)

「孫文=ヨッフェ宣言」が発せられた1923年にソ連に渡り、トロツキーから軍事面や政党の組織作りを学び「中国のトロツキー」とも呼ばれた蒋介石が頭角を現すようになる。

1923年に広東を追われた軍閥:陳炯明が勢力挽回を求めて暴れまわるようになると、蒋介石率いる革命軍は3方向から陳炯明を迎撃に出撃し、見事撃退に成功します。
これにより蒋介石は革命軍の軍事面で確固たる地位を築くことになります。

その矢先、ガンに体を侵されていた孫文が
革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」という遺言を残して死去してしまいます(1925年)

孫文の死後、革命軍国民党の重鎮は、廖仲愷、汪兆銘、許崇智、胡漢民、蒋介石の5名が名を連ねていた。
 一番の後継者と言われていた廖仲愷が暗殺される事件が発生。左派傾向を嫌う人物による犯行であり、犯行計画に右派寄りの胡漢民の従兄が関与していたため、胡漢民にも嫌疑が架けられた。
また兵権と広東省長であり兵権を握る許崇智が事件の責任を取り失脚する。
 汪兆銘蒋介石が革命軍国民党の2大巨頭となり、蒋介石が軍事を担うことになる。

1926年には、革命軍共産党員が無断で軍艦を広州から軍官学校のある黄埔に航行してしまった「中山艦事件」が発生する。これにより、蒋介石は共産党員やソ連軍事顧問団をけん制するようになる。
 汪兆銘はソ連の軍事顧問などからの支持で党内での政治基盤を維持していたため、これにより蒋介石の革命軍内で政治・軍事ともに掌握することになる。

かくして蒋介石は、孫文の遺志を継ぐため、中原で覇を唱える5大軍閥(張作霖、孫伝芳、呉佩孚、閻錫山馮玉祥)と討伐のための「北伐」を開始するのである!!

パート4へ続く

次回予告 

孫文の遺志を継ぎ、遂に開始された北伐。
革命軍の戦意は高く、軍閥を次々に各個撃破していくが・・・。

中華の歴史がまた1ページ。

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