意外に面白い中国近代史:辛亥革命と軍閥群雄割拠の時代①
さて私による歴史ブログ記事記念すべき第一弾シリーズは、日本史ではなく近代中国大陸の話になります(w)
実は、近代中国史は三国志演義顔負けの群雄割拠の覇権レースの時代で面白いのです。
時代背景
時は中国大陸は、満州民族による清帝国の時代です。
清朝末期1850年に中国全土を震撼させた反乱「太平天国の乱」が勃発します。
「洪秀全」という人物がキリスト教を元にした「上帝=GOD」を一神教とした宗教団体を組織し「廃清興漢」を掲げた反乱軍です。
その時、清王朝で義勇軍として名乗りをあげた「李鴻章」がという人物がいました。
「李鴻章」は「太平天国の乱」を鎮め、時の権力者「西太后」に取り入り、清朝の正規軍として取り立てられ清朝で頭角を現していきます。
その後、陸海軍の指揮を任され「北洋艦隊」の司令官、「北洋大臣」を賜わり軍の実権を掌握することになります。「李鴻章」一派を「北洋軍閥」と呼ぶこととなりました。
ちなみに、日清戦争は、この時期に勃発したもので、日本海軍の連合艦隊は 「黄海海戦」で北洋艦隊を壊滅的打撃を与え、大日本帝国がアジアの大国に躍り出るきっかけとなり、清帝国没落の遠因になってしまいました。
「李鴻章」の死後、「袁世凱」が「北洋軍閥」の後継者となり、清朝の軍事を担うこととなります。
日本の目覚ましい発展に驚いた皇帝・光諸帝は「成戊の新政」という近代化の「改革」を強行します。
しかし準備不足な改革であったため、逆に国内に混乱を招いてしまいます。最高権力者西太后は、事態を収集するために光諸帝の失脚を計画します。しかし光諸帝の方でも事態を察知しクーデターを計画します。清朝内部で陰謀が埋めいていました。
「西太后」派の袁世凱は、この光諸帝のクーデターを事前に察知し、光諸帝は幽閉の身となり失脚。改革も失敗に終わります。(成戊の変法)
1901年に、西洋列強の中国大陸進出を快く思っていない民衆の中から「義和拳」という武闘組織が誕生し、「廃洋興清」のスローガンを掲げた「義和団の乱」が勃発します。
「西太后」は義和団を利用して西洋列強の勢力を中国大陸から駆逐しようと目論見ますが、日本を中心とした西洋列強連合軍により義和団の乱は鎮圧され、逆に清王朝も弱体化していくことになりました。
この後「西太后」が死去すると、光諸帝の一族である「酷親王」の一派の権力が増したため、今度は袁世凱が報復にあい、失脚するという事態が生じます。
政治の中枢に居ては暗殺の手が及んでいると察した袁世凱は、故郷に隠居の身となることで、命を取りとめた。
このように、清朝内部で、権力闘争が絶えず繰り広げられたため、地方の実力者たちが着々と力をつけ始め「軍閥」として群雄割拠していくことになるのです。
革命家たちの登場と辛亥革命
中国革命の発祥の地は2つあります。
「孫文」を輩出した「広東省」と「毛沢東」を輩出した「湖南省」です。
「孫文」は、1901年の「義和団の乱」を好機として「革命」の旗揚げをしようと試みるが、いずれも計画が清朝に発覚し頓挫してしまいます。
しかし革命の火種は消えることなくその後「孫文」や「黄興」などの革命家たちが「広東省」の革命結社が結成されることになります。
それぞれ別々に活動をしていたが、日本・東京で、「孫文」と「黄興」は運命的な出会いをします。
ここに「中国革命結社同盟」が結成され、中国全土の革命運動家たちが一斉に動きだすことになるのです。
黄興、胡漢民は広東で蜂起。汪兆銘は、酷親王暗殺を企てる。が、すべて失敗に終わってしまいます。
幾人もの革命家たちの活動が失敗するなか、武昌で民衆の暴動が発生!
この機を逃さず、革命家たち主導の元、各省で革命運動が盛り上がります(1911年:武昌蜂起)。
2011年の映画「1911」は黄興の視点からの辛亥革命を描かれています。
主演:ジャッキー・チェン
この時期、革命家のリーダー的存在の孫文は、日本に留学し先進国を勉強していたため、革命の旗手として人望のある軍都督:黎元洪が祭り上げられていました。
その後、日本から帰国した孫文が、中国の新政権の臨時大総統に就任することが宣言され、厳かに「中華民国」がの誕生が宣言されました。
「武昌蜂起」の報に、清朝の最高権力者:酷親王は、こともあろうに政敵であり自らが失脚に追い込んだ袁世凱に事態の収拾を求めてしまいます。
深謀遠慮の袁世凱は、情勢を逆手に取り、政敵:酷親王の執政職の退陣や、軍備増強費用の捻出などを条件に、革命討伐に乗り出すことを承諾しました。
腹心の部下:段祺瑞、馮国璋の活躍は目覚しく上海の黄興軍を壊滅寸前まで追い込むなどの活躍であった。
一方で、袁世凱は、革命軍に対し各省の独立を容認し、清朝を廃する代わりに、新政権が設立された暁には自分を大総統にする密約を交わしていました。
二枚舌により、革命軍と清王朝は、袁世凱の手玉に取られていたのです。
※日本政府も袁世凱には、二枚舌外交で騙された事例があり怪物と呼ばれていました。
清朝皇帝:宣統帝が廃され、清朝が滅亡したことで、革命軍の面目も保たれたため、新政府:中華民国の正式大総統の座は、袁世凱が射止めることになってしまいました。
1912年、正式に「中華民国」樹立が宣言されました。
画像Wikipediaより 中華民国の大総統に就任した袁世凱
新政府誕生後、袁世凱が、幾度となく内閣の革命家勢力を追い落とす為の策略を仕掛けます。
革命派寄りの政権であった唐紹義政権が解散に追い込まれ、議会政治で主導権を握り袁世凱を失脚させようとした宋教仁が、逆に袁世凱により暗殺させられてしまう。
革命家の中心人物であった、江西都督:李烈釣、広東都督:胡漢民、安徽都督:柏文蔚、南京都督:黄興も罷免させられると各地で革命派が反袁世凱の武装蜂起をする。
しかし、この反乱は、ただちに鎮圧され、孫文、黄興、胡漢民、李烈鈞らは日本へ亡命を余儀なくされる。
これでますます袁世凱の権力を強める結果に陥りることになった。
(1913年:第二革命) 第二革命失敗後、袁世凱の独裁政治が始まるのである。
これに気を良くした袁世凱は、再び帝政を行う旨を全土に宣言し年号を「洪憲」とし「洪憲皇帝」を名乗り国名も「中華帝国」に変えようとした。
しかし、さすがにこれには、腹心の部下:段祺瑞、馮国璋も強く反対し、孫文ら革命家の活動も再び活発に動き出させる結果となり、雲南の小皇帝と呼ばれた南方軍閥:唐継尭が、帝政に反対し雲南省の独立を宣言、貴州、広西州の軍閥をまとめ、孫文ら革命軍と連合して、逆賊:袁世凱討伐の旗を揚げる事態になってしまいます。
袁世凱の味方であるべき段祺瑞、馮国璋の両軍閥も中立の姿勢を取り、孤立無援の状態に陥った袁世凱は、皇帝と名乗ることを辞め、再び政権に就こうと模索するが、認められず遂に政治の表舞台から失脚してしまいます。(1915年:第三革命または「護国戦争」)
その翌年1916年に失意のうちに、袁世凱は死去しました。
まとめ
辛亥革命により清朝による中華帝国は崩壊しましたが、名ばかりの革命で結局は独裁者による形だけの人民国家となり、中華大陸は未だに混沌とした様相になり果ててしまいました。
地方で力をつけた軍閥達が虎視眈々と中原の覇者を狙いはじめていたのです。
どうでしょうか?
お馴染みに三国志に例えると 「後漢王朝=清王朝」、「袁世凱=董卓」、「孫文、黄興=劉備」などになぞらえて見えてきて乱世の物語を感じませんか(笑)
パート2へ続く
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