長野県の銅像(川中島の合戦像)

日本戦国史に輝く名勝負 川中島の合戦の史跡と銅像を巡りました。

朝6時 霧の立ち込める妻女山を 高速道路 松代SAより眺め気分が高まりました。

上杉謙信公が本陣を敷いた妻女山中腹に着陣です。

妻女山本陣跡から 川中島古戦場を一望できます。

奇しくも 合戦当日と同じ霧が立ち込め異様な雰囲気漂ってます。

一方 武田信玄公は 海津城に入り、対峙します。

始めてだったので車では少し解りにくい場所にありました。一応 駐車場は整備されていますが、そこから徒歩3分ほどの距離、田んぼ道を歩き海津城に到着しました。

10日間あまり両軍のにらみ合いの後、武田軍が動き出します。
夜にまぎれて 本陣を八幡原へ、別働隊を妻女山の裏に奇襲攻撃をするという 「啄木鳥戦法」。

その動きを察知した謙信公も妻女山を降り、雨宮の渡から千曲川を渡り、八幡原に移動を開始。
「雨宮の渡」に行きましたが、戦国時代と川の流れの位置が変わってしまい記念碑だけになっていました。

千曲川を越えて 決戦地である八幡原に向かいました。

激戦地は現在は八幡原史跡公園となって駐車場、広場、お土産屋さんと整備されています。
八幡社のある付近が 川中島合戦のクライマックス
謙信公VS信玄公の一騎打ち「三太刀七太刀」の場所です。

公園内の 合戦図

ありました! 

上杉謙信・武田信玄一騎打ちの像

長野県長野市 八幡原史跡公園

襲いかかる上杉謙信公 と 軍配で迎え撃つ 武田信玄公 

このカットが有名ですね。

鬼気迫る 謙信公の表情

冷静に軍配で太刀を受け流す 信玄公

銅像は荒削りな作風ですが、逆にそれがこの合戦場に映えていました
素晴らしい

新潟県の銅像:胎内市(板額御前)

美人過ぎる銅像と言われている板額御前の銅像を紹介します。

板額御前は、平安時代末期~鎌倉時代初期の人物。平家方の豪族:城(じょう)一族の姫君でした。
源頼朝によって平家が滅ぼされ城一族は没落し潜伏を余儀なくされていました。鎌倉幕府が成立し2代将軍・源頼家の時代になった1201年、鳥坂城に立て籠った城一族は鎌倉幕府に叛逆の狼煙を上げました。

板額御前

場所:新潟県胎内市 中条駅
建立年月日:平成13年10月14日
作者:山﨑正義

中でも弓の名手であった板額御前は百発百中の腕前で鎌倉幕府軍を射抜いて敵軍から恐れられたと伝えられます。
しかし、遂に太腿を射抜かれて、城一族の叛乱も鎮圧されてしまいました。
奮闘した板額御前の雄姿を見たいと将軍・頼家から命令を受けた幕府軍は板額御前を鎌倉に連行します。

将軍の前でも物怖じせず天晴な態度であった板額御前に一目惚れしてしまった鎌倉御家人の浅利与一(義成)という人物がいました。
叛乱の主要メンバーとして死罪になるところを将軍に直訴したとのこと。
将軍・頼家も浅利与一の情熱に負けて妻にすることを許しました。
板額御前は、浅利与一の領地:甲斐国(山梨県)で夫と仲睦まじく暮らしたと伝えられます。
板額御前の銅像は、城一族が立て籠もった鳥坂城址(鳥坂山)方面を眺めるように立っています。