横浜の銅像:掃部山公園

横浜の桜の名所の一つである 掃部山公園も4月を前にして桜が満開になったということで、散ってしまう前に仕事帰りに見に行ってきました。

横浜のランドマークの1つであるロイヤルパークホテルを下から眺めたショットです。

桜木町駅を降りて 紅葉坂方面に向かうと 掃部山公園へ行きつきます。
公園入口はすでに満開の桜がお出迎え。

階段を登りきると 公園の奥に銅像が見えてきます。

横浜みなとみらいのビル群を背景に、この銅像を背面から眺めるという掃部山公園では定番の夜景です。

そしてこの銅像の正体は

井伊直弼
神奈川県横浜市西区 掃部山公園


旧彦根藩誌がこの地を買い取り、開国の父ということとし、1909年に横浜開港50年記念に井伊直弼の銅像が建立された。
その由来により井伊直弼の官位であった掃部頭(かもんのかみ)から取って、掃部山公園と名付けられた
とのことです。
 銅像建立の際には、倒幕の立役者であった明治の元勲たち(主に薩摩・長州閥)は、反発したというエピソードもあります。

建立時には、いろいろと問題があった銅像ですが、今では、花見客をやさしく見守ってくれています。
昼も夜も 井伊直弼像の背面からの横浜の風景は実に風流でした。

この銅像は夜景がきれいですので、何度も訪問したくなります

滋賀県の銅像(犬上郡甲良町)

藤堂高虎

場所:滋賀県犬上郡甲良町 在士高虎公園

伊予今治藩主。後に伊勢津藩の藩祖となった戦国大名。

元は浅井家に仕え、初陣の姉川の合戦で武功を挙げるが、主君は敗北する。

浅井家が滅びると織田家に仕え、豊臣家時代は豊臣秀長に仕える。

秀長の元で武闘一辺倒な武将から戦略眼を身につけ、築城技術も身につける。

後に加藤清正と並ぶ 築城の名手としても名を馳せる。

豊臣秀吉から拝領された「唐冠型兜」がかっこいい。

豊臣秀吉が死去すると、豊臣恩顧の武将ながら真っ先に徳川家康陣営に鞍替えをする。

石田三成陣営による徳川家康暗殺計画の情報を仕入れ、家康の危機を救うなど、徳川家康が天下を握った後、家康から最大の信任を得「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と言わしめた。

 家康の最期には、外様大名で唯一 枕元にいることを許されたほどです。

大阪の陣の後、江戸幕府 による大坂城再築のため切り出したものの結局使われなかったという残念石 です。

主君を七度変え、風見鶏、世渡り上手な戦国大名として敬遠される人もいるようですが、私は先見の明があった人物として現代のビジネスマンが参考にすべき戦国大名で、もっと評価されてもいい気がします。

ぜひ大河ドラマ化を!!